ノンリプレイの理由(2)
「ノンリプレイの理由」には、さまざまな意見が寄せられた。1回しか遊ばないゲームが多い私にとって、そういう楽しみ方もあってよいだろうと述べたかっただけだが、勢い余ってノンリプレイ主義を標榜したのは行き過ぎだったと反省している。
ただ、この話がもとで一口にリプレイ/ノンリプレイといってもさまざまな楽しみ方があることが分かったのは収穫だった。とことん一つのゲームを突き詰める人、2,3回遊ぶ程度の人、2,3回目を期すものの結局遊ぶ機会がもてず1回で終わる人、意図的に1回しか遊ばない人がおり、また繰り返し遊ぶ(遊ばない)理由も自分の意思や性格だけでなく、周囲の意向、経済的理由、物理的理由などさまざまである。
この違いは何によるものだろうかと、ゲーム会の後の食事で話し合ってみた。その結果、次のような論点が寄せられた。
1.ボードゲームの目的
2.ボードゲームを遊んできた環境
3.アメリカゲームかドイツゲームか
4.現在ボードゲームを遊んでいる環境
1. ボードゲームの目的は、勝敗とコミュニケーションのどちらかという問題はよく話題になる。何度も遊んで戦略を研究し、腕を磨いて真剣勝負に臨みたいという人と、一応勝敗は目指すけれども、軽く遊びながらゲーム中の会話や笑いを楽しみたいという人が同席したら、お互いにストレスを感じるかもしれない。前者は後者の「ゲームを壊す」ような手が許せないし、後者は前者が「最善手」「定石」などを押し付けてくるようで怖い。
2. このような目的の違いをさらに考えると、これまでボードゲームを遊んできた環境に行き着く。サークルなどで先生や先輩の指導を仰ぎながら囲碁や将棋のようにプレイしてくれば、自然と勝敗重視の姿勢になるだろうし、ちょっとした時間つぶしや親交の一環として友達と遊んできた人ならば、コミュニケーション重視になるだろう。今までと違う目的を急につきつけられても、今までの自分を否定するようで簡単に修正できない。
3. 一口にボードゲームと言ってもいろいろあるのに、めいめいが自分のイメージで語っているのも、噛み合わない原因かもしれない。一般にアメリカゲームは手番の自由度が高く、その分ゲームバランスはプレイヤーに依存する。プレイヤーやその選択が変われば、ゲームの展開も大きく変わる。これがやり込み要素になる。一方ドイツゲームはシステムでガードされており、無茶なことはできないようになっている。ファミリーでも安心して楽しめ、プレイヤーが変わってもゲームの展開は大きく変わらない。システム自体の面白さや目新しさが重要である分、一定期間を措かずに繰り返し遊ぶと飽きが来やすい。
4. 結局は現在の自分のプレイ環境次第ということになる。というのも、勝敗重視であれコミュニケーション重視であれ、経験値や実力に違いがありすぎると楽しめないからだ。一緒に遊ぶ仲間がいて初めて成り立つ趣味なので、独りよがりにならないよう、周囲の仲間とお互いよく刷り合わせをしておくのが望ましい。「プレイスタイルが合わないので一緒に遊ばない」という選択はできるだけなしの方向で。
私は多くの人と同様、繰り返しプレイするに値する面白いゲームを探すために新作をプレイするというのが実際のところである。繰り返しプレイするに値する面白いゲームが、一生かかっても遊びきれないほど多いのが悩み。その点については、レビューを読んで興味をもってくれた人が遊んでくれて、総体としてのプレイ回数が増えれば、1人では遊びきれない分が補われると考えている。
クラウマウ(Klaumau)
出せないったら出せません
手札を出し惜しみして、できるだけ得点の高いカードを残すゲーム。カードの出し方は『ウノ』のように同じ数字(マーク)か同じ色だが、出せるのに「出せません」とウソをつくことができる。
「出せません」と言われたら次のプレイヤーが通すかダウトをかけ、ダウトをかけてウソがばれたらそのカードを出させられる上に、ダウトをかけた人が山札から2枚引いてしまう。逆にウソじゃなかったら、自分が2枚引ける。
これにリバースやスキップなどの定番、手札からくすねるこそ泥、それを守る警察などいくつかのアクションカードが加わる。発展ルールではサドンデスルールなどがあるが、笑える爆弾で「独自のルールを皆で考えましょう」とある。
誰かの手札がなくなったらラウンド終了。手札が残っている人は、カードの数字分だけ得点になる。人数分ラウンドを行って合計で勝敗を競う。
正直に出していては勝てないが、いつも遊んでいるメンバーなので、ウソがことごとく見抜かれてしまった。どうもウソを言った後人をじろりと見る癖があるのがいけないらしい。今度は目をそらしてみようか。
Klaumau
F.シュターク/ニュルンベルガー・シュピールカルテン(2008)
2〜8人用/7歳以上/20分
日本語ルールを公開中