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『ゲーム的人生論』

おそらく日本で最も名前の知られたゲームデザイナー、鈴木銀一郎氏が1996年に同タイトルで出版した半生記を加筆したもの。実家の履物商からバーテンダーを経て編集者に至る鈴木氏の職歴と、将棋→囲碁→麻雀→SLG→コンピュータ→TRPGに至るゲーム歴をたどりながら、ひたむきにゲームに向き合う氏の人生観を知ることができる。

ボードゲームではディプロマシーが触れられているだけだが、少女野球チームの監督を願われて勝利に導いた「ラムネの味」、母の死をじかに見て死が怖いものではなくなったという「人生はロールプレイング」、風潮に囚われず物事を考え抜く哲学がゲームに必要であることをを説く「DNAと哲学」など、小説家でもある氏の名文にすっかり引き込まれた。

競馬マフィア企業買収ゲームなど鈴木氏の作品を遊んでも、当然のことながら氏がどういう人物かを知ることはできない。何となくクニツィアの影響があるのだろうかと思う程度である。ヒゲを伸ばした、風変わりなお爺ちゃんというぐらいしか知らなかったが、この本を読んで鈴木氏が真のゲームバカ(最上の賛辞のつもりで)であることが分かった。

例えば氏は囲碁五段、将棋三段くらいの腕前だというが、その上達方法は何段という目標を定めて、手筋辞典や詰将棋を延々何百問も解くのである。麻雀では、徹夜して二三時間眠ってまた徹夜とかいう無茶を続けた。ノルマンディー上陸作戦をもとにした自作SLGでは、テストプレイで1ゲーム40時間。テレビゲームは月200時間ということもあったという。

家族もちとは思えないこういう努力と時間のことを氏はSLGばりに「投入量」と呼ぶが、尋常じゃない。もうここまで来ると効率がいいのか?いう疑問も吹っ飛んでしまい、その迫力にただ圧倒される。毎朝4時か5時に飛び起きて制作を始めるというクニツィアもそうだが、ゲームデザイナーたるもの、これぐらい人生をゲームに割かなければ大成しないのかもしれない。

氏はどちらかというと不器用な生き方をしているし、ゲームデザインの方法も虱潰し風でスマートではない。しかし謙虚でひた向きな姿勢は、時として器用貧乏を凌駕する大きな力になる。1%のひらめきと、99%の努力。思い付きでチョチョイのチョイと作られたような作品はオシャレかもしれないが、長い目で見て次世代につながるゲームは、このような姿勢からしか生まれないのだろう。

ゲーム的人生論

ゲーム的人生論

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ソロプレイ感

ボードゲームのネガティブな評価として「ソロプレイ感(またはソリテア感)」というものある。インタラクション(プレイヤー間の相互干渉)が少なく、ゲーム中まるで一人でコンピュータゲームを遊んでいるかのような感覚になることをいう。

インタラクションというのは、システムとして競り、交渉、交換、協力、直接攻撃、数比べ、レース、ブラフなど。いずれもほかの人の動向を絶えず観察し、牽制し、ときに利用するもので、ボードゲームの楽しさの源泉となっている。

ボードゲームの大半は何らかのインタラクションをシステムとしてもっている。しかしこうしたシステムを用いない、あるいは用いたとしても勝敗にあまり影響しないというゲームが「ソロプレイ感」の強いゲームと言われる。直接攻撃・直接妨害がないゲームだけを指すのではないことはBunkeiさんが述べている(「ソロプレイ感とお仕事感と。」)。

最近ではクラウス・トイバーが脱カタンシリーズで発表した紀元1503(2003年)」、「カンダミール(2004年)などがそうで、インタラクションのなさがマイナス評価につながっている(特にカンダミール。例えばH@LL9000の評価を参照)。

サンファン(2004年)」もプレイヤーの行動がほかの人にあまり影響しないという意味でソロプレイ感を感じた人もいるようだが、その元になったボードゲームプエルトリコ(2002年)から見て相対的にということだろう。評価自体は低くなかった。

また変わったところではウボンゴ(2005年)がある。一斉にパズルの早解きを競うこのゲームはインタラクションが薄いけれども、短期決戦のためかこれも評価は悪くない。

こうしたゲームを遊ぶとき、ソロプレイ感を緩和できればもっと楽しさを引き出せるはずだ。

まず考えられるのは、ソロプレイ自体を楽しむということである。ゲーム中は誰からも干渉されない自分だけの世界を大事にする箱庭療法のような楽しみ方だ。あるいは脇目もふらず全力を尽くして疾走するウボンゴ的な楽しみ方(新作郵便馬車(2006年)もそういう面白さがある)。結果はふたを開けてのお楽しみとしてゲーム中はあまり気にしない。あまり干渉を好まない内向性のある人にとっては、直接攻撃のすさみ系ゲームよりは、これ自体でずっと楽しめるだろう。

しかしそうでもない、人が集まるからには人をこそ楽しみたいという人には、そのゲームのより深いところにインタラクションを隠れていないか探すことを勧める。数多くの新作がどんどん発売される今日、多少面白くても1度遊んでそのままというゲームは多い。しかし何度か遊んでみると1度目には気がつかなかったゲームの機微に気づくこともあるのだ。

クレオパトラと建築士もどちらかというとインタラクションが薄いが、ほかのプレイヤーの非公開情報(お金と汚職チップ)を読み、それを自分の行動に反映させると考えれば決してソロプレイ感はない。

さらに、ノリのいいプレイヤーならば、システムとは関係なく、会話レベルでインタラクションをするという楽しみ方もあるだろう。ゲームの登場人物になりきってRPG風にしたり、ボケとツッコミ、ダジャレなどを交えてお笑い風にしたりすれば、世の中に面白くないゲームなんてない。

もっとも、ゲームに合わせて性格や遊び方を変えられるほど器用な人はあまりいないから、現実には、内向的な人、システムの深みを研究したい人、ノリのいい人と遊ぶならば、インタラクションの弱いゲームを出してもよいということになるだろう。ここでの結論はソロプレイ感を感じたらインタラクションの要素をもっと探そう、会話でつなごうということにしておく。