ギャンブルは全くしない私だが、祖母などはボードゲームを趣味にしているというだけで「賭けているのか」と訊いてくる。そんなギャンブルへの偏見を、私ももっていたことをこの本を読んで反省している。
著者は麻雀をこよなく愛する弁護士で、雀荘で遊んでいるだけで賭博罪に問われてしまう現状への違和感から出発している。刑法の謙抑主義(やむを得ない場合のみ適用する)や可罰的違法性(違法でも程度が低ければ処罰されない)といった概念を紹介し、最高裁の判例や法学者の見解も仔細に検討しているので説得力がある。それでいてドラゴンボールや叶姉妹の喩えで堅苦しくない。
表題に対して、関係者の取材から得られた結論は、仲間同士で常識範囲内のレートなら逮捕されない、フリー雀荘・都内・リャンピン東風戦の条件がそろうと逮捕の可能性が高いというものだが、ここまでは最初の30ページくらい。その後は、賭博罪が理不尽であるかという主張である。
賭博をした者は、五十万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りではない。(刑法第185条)
「賭博」とは「偶然の輸贏(ゆえい=勝敗)に関し財物をもって博戯(自身が参加する競技で賭ける)または賭事(他者の競技で賭ける)をすること」である。偶然の勝敗といっても、運のみのゲームというわけではない。賭け囲碁ですら偶然の要素があるので賭博だという判例があるという。
賭博罪が不当である根拠として挙げられているのは次の通り。
- 度を過ぎた賭事は、離婚事由や破産者の免責不許可事由となりそれだけで不利益を被る法律がある。イカサマには詐欺罪が適用される。これに賭博罪で輪をかけるのは行き過ぎである。
- かつて最高裁判所が賭博行為が公共の福祉に反する理由として、「怠惰浪費の弊風を生じさせ、勤労の美風を害する」「賭博が暴行、脅迫、殺傷、強盗、窃盗その他の副次的犯罪を誘発する」としたが、働かないだけで刑罰が与えられるのはおかしいし、事実と異なることが社会学的に反証されている(「賭事に関する英国王室委員会報告書」「賭博に関する世論調査(スウェーデン)」)。賭博を好む人たちは、高い収入を目指し努力する傾向にある。
- 競馬は近年、三連単を導入するなどギャンブル性を高めており、ほかの公営ギャンブルも同様である。公設が検討されているカジノはもっとギャンブル性が高い。これらの公営ギャンブルは収益が社会に還元され、不公正がないというが、賭博自体は否定していない。
- パチンコ業界にいたっては、公営でもないのに警察OBの天下りである保安電子通信技術協会がお墨付きを与えている。
- 酒と同様、人生を台無しにする人や犯罪行為に走る人はごく一部である。これを一律に法律で禁止すれば、禁酒法時代のマフィアのように非合法集団の利益を生むだけである(琴光喜の野球賭博問題)。
- 日本人に賭博への嫌悪が根付いたのは明治時代の自由民権運動に端を発する。この反政府運動には博徒が参加していた。そこで政府は博徒を徹底的に取り締まることで、運動の沈静化をはかった。このときに賭博をすると重罰という観念が日本人に植えつけられ、現在に至っている。
- 公営ギャンブルやパチンコよりギャンブル性が低いフリー雀荘で働き、お客さんの娯楽と活力回復の手助けという社会貢献をしている店員が、刑法の規制対象になるのは人権侵害である。
筆者の主張は、公営ギャンブルやパチンコを廃止することではなく、賭博は庶民に広く大切な娯楽として、賭博罪を撤廃することである。それができなくとも、フリー雀荘がレートを含めて営業許可をもらうようにするか、最高裁の15人の裁判官のうち1人でも賭博罪のあり方に疑問をもってもらえばよいという。
私自身も、パチンコ屋の駐車場がいっぱいになっているのを見て「こんなところで浪費して何の得があるのか」と思ったことが何度もある。しかしそこでパチンコを楽しむ人は、ひとつの娯楽として、自己責任の範囲内でストレスを解消し、明日への活力を得ているわけで、何も非難すべきことではないのだ。お見合いの席で「趣味はフリー雀荘通いです」と堂々と言えるような社会のほうが健全なのだと思うようになった。