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ゲームに点数?(4)

主観は正直なもの
さらに、私がゲームデザイナーだったら、点数で批評されてどう返したらよいのか? 意見ならば異議を唱えたり議論したりでき、少なくとも理屈は分かる。ところが点数は一様で、絶対的なものだ。客観的なものではないのに、客観性を装ってしまう。しかしゲーム評論に客観性はない! あってはならない!
ここで驚いて青ざめながら反対したい方がいるかもしれない。「でもゲーム評論家はできるだけ客観的であるべきでは……」そんな方にはこう答えたい。「それは神様のご意志ってだけさ」と。ゲームは感情的で対人間的な行為である。ゲーム評論家は客観的でなく、正直であること! だから客観的であることを主張する人は信憑性に欠ける。ゲームの魅力を判断するのは、そのゲームを遊んだ自分自身の主観的な経験に基づいているからだ。
もちろん、評論家の主観は気まぐれなものではなく、何年にもわたって蓄積されたゲーム経験と能力を枠組み・背景の中で絶対的なものとなり、批判されたデザイナーやメーカーにとっては生命線にさえなる。それを理解しなければ、ゲームは最初からよいもので、評論家だけがバカだということになる。それはもう客観的ですらない。これ以外の条件では、ジャーナリストとしていかなる批判も書くことができないし、精神的に健康でいることもできない。
批評家の精神状態
ゲーム前、ゲーム中、ゲーム後における評論家の精神状態は、点数によって完全に抜け落ちてしまう。ホモ・ルーデンス(遊ぶ動物)として人はゲーム中にさまざまな感情をもつときがあるが、陶酔したりそうでなかったりしても理由は分からない。私がぼろぼろにこき下ろして憤慨するようなデザイナーにはこう言いたい。「私もゲームのことでよく憤慨するようになりましたよ。デザイナーがルールブックの中でルールを説明せず、自分の経歴なんか書いているんです。これには憤慨しました。また2つの色の見分けが付かないゲームがあって、今もまだ遊べるとは思ってもいませんでしたよ。」
しかし、私がゲームで感情的にふるまい、緑と青の区別がつかないことに怒り、審査員席にいるかのような顔で裁断を下すとき、感情は私の判断に強く影響を与える。私は文中でそのようにネガティブな判断に至った状況を書くこともできる。ここスイスでさえ、1年経ってもまだずっと文句を言われている(だからといって撤回しないが)ぐらいの辛らつな批評は、とりわけ渾身の力を込めて書いたものである。なぜそのゲームがネガティブなのか、簡潔に説明するのが一番よい。
結論は変わらない。私が心の中でゲームの点数を全くまともに取り合っていないのに点数をつけるならば、どうして私自身や私の仕事に真摯でいられよう? そこで前面に出すのは、私の主観的で感情的に刻み込まれた意見を、ゲームについての客観的な背景のもと、議論の余地を残してドイツ語の文で知らせることである。ゲームに点数をつけるくらいなら、ゲームについては記事を書きたくない。ただし、どうしても点数を信じたいという人の信教の自由を犯すものでもない。
(おわり)

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ゲームに点数?(3)

映画とサッカー
それではいったい、主観的な経験の本質とは何だろう。例えば、映画館である映画にえらく感情を揺すぶられた。そのため気分が高揚してしまい、帰り道も分からないくらいになって、午前2時まで街の中をぶらついていた。ところが半年後、同じ映画をもう一度見たけれど、退屈で居眠りしてしまったなんてことがある。
ゲームを映画と比べるのがちぐはぐなことはもちろんである。映画のストーリーは、主観的な経験のもとになる外的な出来事であり、いつも変わらない。一方、ゲームのストーリーはいつも変わり、外的な条件は一緒に遊ぶ人の性格と人数によって極端に変わる。「ゲームの魅力」を4点にしたゲームが、別の日に遊んだら9点になるかもしれない。残念ながら、私の場合どうしてもそうだ。
点数をつけることについて正直に答えるならば、こう言わざるを得ない。一緒に遊ぶ人の雰囲気、性格、期待、人数によってゲームは、(10点満点中)2〜8点のどれにでもなると。毎回毎回のゲームが個々の経験となり、それが特別なものだったので何か点数をつけたいのだろう。ちょうど特にエキサイティングだったり、フォワードの技術が輝いていたサッカーの試合に点数をつけるように。おそらくブラジル対ドイツ戦は10点で、スイス対ウクライナ戦は2点といったところだろう。
ところが「サッカー」自体のゲームやルールに点数をつけるならば、例えば9点なんかになる。「ハンドボール」は6点、「バスケットボール」は7点かもしれない。もっと言うならば、ゴーカートは8点、かくれんぼは4点か。そのような点数は、それぞれのスポーツや遊びそれ自体の品質について言うのではないだろうか?しかしそれはおそらく、点数をつける人がどれくらい好きではまっているかによるものだろう。
ゲームは誰をターゲットにしているか?
そこからまた言えることは、たったひとつの点数をつけるのは不適当ということだ。遊ぶ人数が2人か、3人か、4人か、5人か、6人かによって全く中身が変わるゲームは多い。ほとんど全てのゲームは2人や3人で遊ぶなら予測可能で戦略的だが、4人や5人で遊べば偶然や運の要素が高くなる。偶然の要素を好む人もいれば、そうでない人もいる。
だが、たとえゲーム評論家がこの要素を点数をつけるときに使うとしても、偶然の要素が大きいことはゲームの品質と関係ない。人と会ったらまず運の要素が大きいゲームからという人も非常に多い。点数なんかよりもずっと実用的で重要なのは、ゲームがどんな人向きに作られているか、ターゲットは誰かという情報ではないだろうか。
さらに、経験が主観的で感情的というだけでなく、ゲーム評論家が感情的で主観的で、ときにはかなり当てにすらならないものだということにもなる。点数によって客観性や確実性を見せかけようとする人は、少々詐欺師のようなところがある。私自身、10回遊んでもゲームが本当に全ての面で把握したかどうか、私の言葉による評価が本当に適当かどうか自信がない。それなのにどうやって予め点数をつけられよう? そのような点数の信憑性を保障できるようなシステムを私は知らない。
真面目なプレーヤーなら、あるゲームでの態度は、ゲームが長引けば長引くほど、遊ぶ人が異なれば異なるほど変わるということを認めなければならないだろう。何年か後に自分がつけた点数を比べながら見直せば、誰しも自分の測定方法がいかに不正確であったかきづくものだ。どんなに真面目に点数をつけているつもりでも、得点リストを見れば幾分か気まぐれがあったことを否定できない。
またゲーム評論家は、点数によって自分自身が直接ダメージを受ける場合もある。つまりテキストを全く読んでもらえなくなるかもしれないのだ。もちろん理論的にはまず記事を読む糸口になるかもしれないが、これについてはあまり話を広げないでおこう。
(つづく)