確か益田ラヂヲさんだったと思うが、10年近く前に「失敗する権利」というのが論じられたことがある。ちょうど畑村洋太郎氏が『失敗学のすすめ』を著し、失敗を必然的なものとして受け止め、その原因や背景を分析する必要性が叫ばれた頃だった。
ボードゲーム界隈でなぜこのような話になったかというと、ゲームのチョイスで経験者が初心者に「それは面白くないから止めておいたほうがいいよ」というようなネガティブなアドバイスをしたり、ゲーム中に「その手は悪手だから変えたほうがいいよ」というようなおせっかいな助言をしたりすることが目に余ったからのようである。
ゲームのチョイスについて言えば、出版社や輸入代理店など、多くの人の厳しい目で選ばれ、手元に届けられた作品は、人やTPOによって合う合わないはあっても、全ての人がいつでもどこでも楽しめないということはありえない。それなのに、個人的な感想だけで他人が楽しむ可能性を奪うのはよくない。
確かに、ほかの作品と比べて楽しめない可能性は高いかもしれない。また、相手のことを知っていればいるほど「これは君に合わない」という想像もしやすい。しかし、相手も一個人として選ぶ自由をもち、選んだ結果の責任を負う。つまらない作品だったとしても、その経験は次に活かすことができる。だから経験者は、初心者が失敗しないよう躍起になることはない。口出ししたくなる気持ちを抑えて、温かく見守るべきだ。これが「失敗する権利」の尊重である。
同様に、ゲーム中の一手についても、相手の意志をできるだけ尊重し、失敗したらゲームをやり直すなどのフォローをすることで、その人が考えたり楽しんだりできる余裕を作ることが「失敗する権利」の尊重である。
先日、久しぶりに行ったオープンなゲームサークルで、1ラウンド目から相手に喧嘩を売った結果、返り討ちにあって立ち直れないくらいのダメージを受けた人がいた。喧嘩を売ったときから結果が見えていたが、「それは……」くらいで濁しておいた。でもこのまま続ければ最下位は確実そうである。そこで、インスト者として、その人に「最初からやり直しますか?」と提案。結局、その人は続行を希望し最下位だったが、あの時点で聞いておかなければ、つまらないセッションになってしまったと思う。
他人を傷つけたり、命に関わることだったりするならば、失敗するのを分かっていて見守るなんてことはできない。また、誰だって失敗したくてするわけではなく、できれば失敗しないほうがいいに決まっている。だがボードゲームは趣味である。楽しみ方の幅を広げたり、自分にぴったりの楽しみ方を見つけていくには、失敗を重ねて、いろんな寄り道をしていくのも悪くないだろう。言葉は堅苦しいが「失敗する権利」にはそんな余裕が含まれている。ひとつのやり方を強制するパターナリズムと、一切を自己責任に帰す個人主義の両極端を離れた、誠に穏健な考え方だと思う。
ゲームのチョイスにせよ、ゲーム中の一手にせよ、ボードゲーム自体の楽しみ方にせよ、たとえ親切心からであっても、他人のやり方にすぐけちをつけないで、結果うまくいかなかったときにフォローするのが、相手の人格を尊重するだけでなく、相手に学ぶ機会を与えることになる。余裕のある経験者はそんなことを念頭において、初心者に「失敗する権利」を認めよう。まあ、別にメシウマだっていいのだが(笑)。