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『ドイツ病に学べ』

戦後、日本が求め続けてきたお金と、ドイツが求め続けてきた余暇。どちらが豊かな生活かといえば、ドイツに軍配が上がるに違いない。仕事が終わってから平日の夕方にボードゲームが遊ぶなどというのは、日本ではまず考えられないことだ。
企業に最低限20日の有給休暇を義務付ける「連邦休暇法」(しかも大半の会社では30日、土日を合わせて6週間を完全に消化するのが当たり前だという。この結果年間労働時間は1600時間、日本の8割である。)、葬儀費用や分娩費用、さらに「クーア」(病気や怪我の後に医師の診断書があれば最高6週間、山や湖のホテルで転地療養ができる)までカバーする公的健康保険、美術館と見まがうような豪華な老人ホームに入れる介護保険、1日10時間以上の労働や日曜出勤が明るみになると経営者が刑事訴追される労働法、6ヶ月の試用期間が終わると組合の許可なしには解雇できない「従業員を解雇から守る法律」、取締役に労働者代表を入れなければいけない共同決定方式、平日は午後6時半、土曜日は午後2時に店を閉めなければならなかった「閉店法」、定価の3%を超える値下げや、顧客層によって価格を変えることを禁じる「値下げ禁止法」、バーゲンセールができない「不正競争防止法」などで国民や産業は手厚く保護されてきた。
しかしその弊害が今出始めている。

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音楽とボードゲーム

「プレイヤー」といえば、ボードゲームやスポーツをする人のほかに、演奏家や役者という意味がある。そこで学生時代にはまっていたクラシック音楽の演奏とボードゲームのプレイを比較した。
まず作曲家とデザイナー。音楽には有名無名の作曲家がおり、好みも分かれる。より多くの人に好まれる作曲家が結局後世に残っていくわけだが、中には死後急速に忘れ去られたり、逆に死後急激に評価が上がったりすることだってある。ボードゲームにデザイナー名が明記されるようになってから約30年、有名無名の差や、人気の浮き沈みも見られるようになってきた。もしかしたら今は全く評価されないボードゲームが、数十年後にヒットしているかもしれない。
楽曲は古典から現代に向かって進化しているかと言えば、そうとも言い切れない。現代音楽がワケのわからないものの代名詞だったりする。音楽史を見れば古典回帰の時代もあった。そういう点からも、古いボードゲームが後世に評価される可能性はありえる。何であれ現代というものは歴史にまとめにくいものであり、5年、10年のスパンでは簡単に判断できない。
古いものに新しい価値を見出すのは誰だったかといえば、演奏者であり、聴衆であり、音楽評論家である。プレイヤーが達人で観衆がつくようなボードゲーム(囲碁や将棋など)は多くないが、ちょっと心得があれば誰でもプレイヤーになることができるから、あちこちで評価を広めれば、個別の作品の価値は自然に見出される。
でも演奏するのが難しいからといって、楽曲が悪いと決め付けるのはおかしい。確かに作曲家が奇を衒いすぎて、誰もついて来れないということはある。しかし作曲家の意図を理解し、行間を読み、自分なりの創造性を加えれば、聴くに値しないような作品はほとんどない。ボードゲームも、プレイヤーの腕前によって面白さは全く変わる。ここでいう「腕前」とは思考力のことだけではなく、コミュニケーション力、表情、参加者全員の調和も含めた総合的なものである。ただ勝てばよいというものでもない。
名演奏家がいるのと同様に、このような総合的な腕前をもったボードゲームの名プレイヤーも存在する。紳士的な態度、ルールの正確な理解と適切な運用、皆を唸らせるクレバーな一手、当意即妙な会話、負けてもウケを取れる余裕……そんなプレイヤーと遊べば、面白さは何倍にも跳ね上がる。童謡をプロが演奏すれば感動的な演奏ができるのと同様、子供ゲームも、名プレイヤーが遊べば子供がいなくても楽しいセッションになる。
もっとも、そういう人がいるからといって自分も受身になってはいけない。ゲームメイクは、プレイヤー全員のアンサンブルである。演奏がきまったときの喜びが最高なのと同様、ボードゲームも、心をひとつに合わせて、最初から最後までエキサイティングに楽しめたら最高である。
音楽演奏には一流志向と娯楽志向があるが、必ずしも相反するものではなく、重なるところも多い。演奏技術が上がってレパートリーが増えたり、皆とより合わせられるようになったりするのは楽しいものだ。ボードゲームも、勝敗ばかりに気をとられず、しかし勝敗を捨てるわけではなく、適度に勝敗をめざしながらいろいろなゲームを皆と一緒に楽しむのがよい。
お気に入りのボードゲームを、仲間と心を合わせて遊ぶ。そういう営みのひとつひとつが、歴史を作っていくのだろう。