ゲームに点数?(2)
どんな方法論か?
ゲーム評論家がゲームに点数をつけるまで、どのようなプロセスになるだろうか? どんな方法を使うのだろうか? 点数を決めるプロセスを考えていくと、不十分で不透明で、役に立たない方法論に行き着くものである。
ゲームの点数は評論家の「感覚」に基づいており、娯楽程度であって、単なる大衆迎合に過ぎない。というのもさまざまなアプローチが、端的な標語(点数)に置き換えられ、感情を引き起こすからである。点数は、点数では表せないものまで、まるであるかのように信じ込ませてしまう。
驚くべきことに、いつも点数をつけているゲーム評論家と個人的に話をしてみると、点数をつけることには否定的な見方をしているけれども、消費者の期待に応えているのだという人が多い。学校やジャンプ競技ではきちんと定められたそれぞれのパフォーマンスが点数で評価される。そこで同じくらいのパフォーマンスの点数が変わりすぎたら、点数をつける人がよくないことになるだろう。
私は今日まで、ボードゲームに点数をつけることでうまく伝わると思ったことは一度もない。ひとつだけ言えるのは、同じゲームが点数をつける人によって全く違う点数になるならば、それは対象となるゲームの内容というよりはむしろ、点数をつける人の問題だということだ。
どうしたら点数は信頼できるか?
誤解のないように書き添えておくと、私は点数に反対してはいない。評論家は好きなように点数をつけてよかろう。何千、何万と。それでも彼らの仕事に対して私が敬意を失うわけではない。私は単に個人的にゲームの点数に興味がないというだけのことだ。読者としても、物書きとしても。読者としての私は信憑性を推し量るし、物書きとしての私はそれで食べていく。
たとえゲーム市場が点数を求め、読者が抗議の手紙を書いたとしても、評論家にとって信憑性をなくすことほど手痛いことはない。評論家が自分の信憑性をゲーム市場のため犠牲にするのは、ゲームメーカーとデザイナーにできるだけ好かれようとするのと同じくらい無意味なことである。
点数付けは常に「娯楽」としてなら受け入れられる。私自身の現実には影響を与えたり、細かく考えたりすることはない。それならば、どうしてこんなことをここに書くのかって? 答えは簡単。ゲームに点数をつけるよう頼まれたので、ちゃんと説明しなければならなくなったからさ。ここで書いたことは、私の意見をまとめたものだ。よければさらに読み進めて、最後に私に点数をつけて下さい。
意見をまとめるにあたって次のような確信に至った。確実なものがないこの世界で何か確実なものをつかもうとすると、ルール、コンポーネント、イラスト、ひょっとするとゲームのアイデアさえも点数をつけられるものだと。多分ルールやイラストのようなものは現実にも1〜10で計られるのだろう。でも、そのように客観的な点数や、さまざまなゲームの経験をいくつか出し、その中から数学的に平均を計算する試みは、私にとってまったくアホらしい。
いつも念頭に置かなければいけないことは、ゲームというのは、ほかの人と主観的で感情的な経験をするために使える道具とアイデアにほかならないということだ。
(つづく)
ゲームに点数?(1)
ドイツ年間ゲーム大賞のホームページに掲載されたコラム「ゲームに点数?」を訳出。
−
ボードゲームやカードゲームに点数をつけるのは、日刊紙、雑誌、専門誌など(ほとんど)至るところに見られます。トム・フェルバー(年間ゲーム大賞審査員メンバー・ニューチューリッヒ新聞編集)は、自分の評論で意識的に点数をつけないようにしています。なぜそうするのでしょうか。
−
ボードゲームの点数は、批判的に考えるならばまじめに取り上げることはできない。私にとってゲーム批評家はれっきとした仕事なので、私はボードゲームに点数をつけるのを許せない。
チューリヒにあるどこかのボードゲームショップで新しいゲームを買いたい人は、「このゲームは面白いですか」などという質問を決してするべきではない。答えはだいたいこんな感じだろう。「ボードゲームが面白いかですって? 本気でそう思ってるんですか? ちゃんとゲームをよく見てくださいよ。何が見えます? 箱、木のコマ、紙。箱は面白そうですか? 面白そうじゃない? じゃあこのゲームは面白くないかって? 一緒に遊ぶ人はどうかな。面白がってくれるかもしれませんし、面白くしてくれるかもしれませんよ」こんな感じ。
それから一緒に遊ぶ人はゲームを退屈なものにするかもしれない。さらに悪いことに、彼らはわざとやってるのではないのだ。たいてい彼らは、ゲームとして面白いとか面白くないというのは自分自身であるとさえ気づかず、そのゲームが自身にとって面白いか面白くないかも考えない。
遊ぶ人自身が品質を決める
私は、かつてゲームのルールを音楽作品と比較したことがある。ゲーム仲間はオーケストラであり、デザイナーのアイデアをルールとコンポーネントに基づいて、作曲家の楽譜のように解釈する。その解釈はゲーム仲間によって変わり、遊ぶ人がルールを読む能力と意欲によって上がったり落ちたりする。
遊ぶ人は、自身で活発なパフォーマンスをしなければならず、そのふるまいによってゲームの品質が決まる。「間違った」人々と遊ぶと、ゲームを全く見損なうかもしれない。ある晩に5分やっただけでもう途方にくれ、これは遊べないと思った同じゲームが、別の晩にほかの人と遊んだら3時間も熱中したなんてこともあるだろう。
コンサートで、作曲だけでなく解釈も評価されるのは普通のことだ。でもゲームの場合、ゲーム評論家自身が解釈の一部になる。だからゲームの点数付けでは、雰囲気と一緒に遊ぶ人の状況の中でゲーム評論家が創造した経験がもちろん反映される。挑発をこめてこんな質問をしよう。思考力も知性も全然異なる人々の間で、自分自身の創造力を「ゲームの魅力」と一緒にして点数を付けるのは変じゃないか? 学校の児童たちが、学芸会で自分の創造力やパフォーマンスに自分自身で点数をつけないのは当然である。
たくさんのゲーム評論家が無視しているのは、多くのゲームが、遊びこなすのに心の落ち着きと、知的、社会的、心理的な判断能力を前提とするということだ。バイオリンから間違った音が飛び出すならば、それはバイオリンだけでなくバイオリン奏者のせいかもしれない。ローラースケートの新モデルで何度も鼻を打ちつけて転ぶ人がいるからといって、品質の問題になるだろうか?
(つづく)