お仕事感
この頃あちこちで「お仕事」という言葉を聞く。ボードゲームでは「やりたくないのに、状況的にトップのプレイヤーを妨害しなければならない一手」を指すようだ。「お」という文字が付くことで、自己犠牲による妨害という両者にとって悲惨な状況を巧妙に包み隠している*1。
例えばこのまま何もしないと次の手番で1位が上がってしまうというようなシチュエーション。不慣れな人が目先の利益に走ろうとしたとき、「お仕事しなきゃあ!」の声が上がる。
ゲーム慣れした人から見れば、全体の順位関係を見ないでつまらない一手を打ち、そのままゲームが終了してしまうというのは耐えられないのかもしれない。その気持ちは分かるが、言ってしまうのは「おせっかい」という問題になる(TGWコラム「困るんです」よりおせっかい参照)。これは別の問題なので、今回は考慮しない。
しかしこれとは別に、同じシチュエーションで自分が止めなければいけないことに自分から気づく場合はどうか。しかもその手は自分に利するものでは全くない。これが終盤延々と繰り返されてぐだぐだになったりすると、「このゲームはお仕事感がある」といってゲームの評価を下げることになる。クラマーによるよいゲームの定義によると、直接的には「キングメーカー効果がないこと」の欠損、間接的には「最後まで全員に勝つチャンスがある」「ゲーム終了までに緊張感が持続する」という2要素の欠損ということになろう。
しかしこの問題は果たしてゲーム・システムの非に一方的に帰せられるものなのだろうか。Bunkeiさんはこうした「お仕事」が、「場の雰囲気に強制されて」「納得して自分の手を選べ」ないものと捉えている(「ソロプレイ感とお仕事感と。」)。たとえそれがシステム的に要請された一手であっても、その手にどれぐらい主体性があるか、自由に好きな手を選べているかはプレイヤーの側の問題なのだ。
プレイヤーの主体性というのは、そのプレイヤーにとってのゲームの目的によって中身が異なる。勝つことを主目的とする所謂トーナメントプレイ寄りならば、「お仕事」をしてゲームを延長させ、その間に少しでも自分の順位が上がる努力をすることになるだろう。その一手はあくまで戦略的な一手であり、「お仕事感」はあるまい。
一方楽しむことを主目的とする所謂カジュアルプレイならば、ウケを取れる一手を狙うか*2、もうこのまま盛り上がりそうにないならば「うっかり」妨害を忘れてゲームを終了させてしまうという手もある。これまた「お仕事感」がなさそうだ(「うっかり」忘れたプレイヤーを、いくら勝ちたいからと言ってほかの人が非難するべきではないことは、hardline1971さんも述べている(「理由のないことは悪くない」)。
こうしてみると「お仕事感」は、プレイヤーが目的意識をもって主体的にゲームに参加することで、同じ手を打っていてもだいぶ緩和されるのではないかという期待される。またそのためには、明言的であれ暗黙であれ、お仕事を強制しないようにほかの人も協力することが前提になる。すなわち、参加者同士が、お互いの目的やプレイスタイルを尊重しあうということが望ましい。「仲良く喧嘩しましょう」「積極的に遊びましょう」というありきたりな結論だが、実際のプレイ中に意識しておきたいことではある。
スコットランドヤード・ゲーム
『スコットランドヤード・ゲーム』
- 野島伸司著
- 小学館
- ISBN:409386165X
- 1,470円
- 6月2日発売予定
……新刊小説らしい。どんな話か分からないし、野島伸司を読んだこともないけれどももしやあのボードゲームと関係があるのかなと思ってチェック。(小学館新刊情報)