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ゲームに点数?(1)

ドイツ年間ゲーム大賞のホームページに掲載されたコラム「ゲームに点数?」を訳出。

ボードゲームやカードゲームに点数をつけるのは、日刊紙、雑誌、専門誌など(ほとんど)至るところに見られます。トム・フェルバー(年間ゲーム大賞審査員メンバー・ニューチューリッヒ新聞編集)は、自分の評論で意識的に点数をつけないようにしています。なぜそうするのでしょうか。

ボードゲームの点数は、批判的に考えるならばまじめに取り上げることはできない。私にとってゲーム批評家はれっきとした仕事なので、私はボードゲームに点数をつけるのを許せない。
チューリヒにあるどこかのボードゲームショップで新しいゲームを買いたい人は、「このゲームは面白いですか」などという質問を決してするべきではない。答えはだいたいこんな感じだろう。「ボードゲームが面白いかですって? 本気でそう思ってるんですか? ちゃんとゲームをよく見てくださいよ。何が見えます? 箱、木のコマ、紙。箱は面白そうですか? 面白そうじゃない? じゃあこのゲームは面白くないかって? 一緒に遊ぶ人はどうかな。面白がってくれるかもしれませんし、面白くしてくれるかもしれませんよ」こんな感じ。
それから一緒に遊ぶ人はゲームを退屈なものにするかもしれない。さらに悪いことに、彼らはわざとやってるのではないのだ。たいてい彼らは、ゲームとして面白いとか面白くないというのは自分自身であるとさえ気づかず、そのゲームが自身にとって面白いか面白くないかも考えない。
遊ぶ人自身が品質を決める
私は、かつてゲームのルールを音楽作品と比較したことがある。ゲーム仲間はオーケストラであり、デザイナーのアイデアをルールとコンポーネントに基づいて、作曲家の楽譜のように解釈する。その解釈はゲーム仲間によって変わり、遊ぶ人がルールを読む能力と意欲によって上がったり落ちたりする。
遊ぶ人は、自身で活発なパフォーマンスをしなければならず、そのふるまいによってゲームの品質が決まる。「間違った」人々と遊ぶと、ゲームを全く見損なうかもしれない。ある晩に5分やっただけでもう途方にくれ、これは遊べないと思った同じゲームが、別の晩にほかの人と遊んだら3時間も熱中したなんてこともあるだろう。
コンサートで、作曲だけでなく解釈も評価されるのは普通のことだ。でもゲームの場合、ゲーム評論家自身が解釈の一部になる。だからゲームの点数付けでは、雰囲気と一緒に遊ぶ人の状況の中でゲーム評論家が創造した経験がもちろん反映される。挑発をこめてこんな質問をしよう。思考力も知性も全然異なる人々の間で、自分自身の創造力を「ゲームの魅力」と一緒にして点数を付けるのは変じゃないか? 学校の児童たちが、学芸会で自分の創造力やパフォーマンスに自分自身で点数をつけないのは当然である。
たくさんのゲーム評論家が無視しているのは、多くのゲームが、遊びこなすのに心の落ち着きと、知的、社会的、心理的な判断能力を前提とするということだ。バイオリンから間違った音が飛び出すならば、それはバイオリンだけでなくバイオリン奏者のせいかもしれない。ローラースケートの新モデルで何度も鼻を打ちつけて転ぶ人がいるからといって、品質の問題になるだろうか?
(つづく)

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『ヴェネチア』にルールカード欠品

Venedig – Mehr Lesestoff fuer Baumeister(建築士の皆さんはもっと読むものがありました)
ドイツのゲームメーカー、アミーゴ社は今年発売したばかりの新作『ヴェネチア(Venedig)』の初版1000セットに欠品があることを発表した。欠品はルール概要カード。本来は全員分の5枚が入っているところが、1枚しか入っていないという。
同社では申し込みフォームから申し出た人に無料で送るという。またすぐ遊びたい人には、製品ホームページからダウンロード(PDF)できるようにもした。
ドイツ語のルール概要カードなので、日本人にとってはプレイ上問題ない欠品だと思うが、お知らせのタイトルがオシャレだ。書き出しも「ものをなくす悪魔がイタズラしまして……」。ゲームの重要な部品の欠品であればこうはいかないだろうけれども、面白さとともに、こういう小さなミスもきちんと報告する誠実さも伝わってくる。
あなたの『ヴェネチア』にルールカードが1枚しか入っていなかったら、それは初版ですよ!