トム・フェルバー(ドイツ年間ゲーム大賞審査員)
2014年3月28日(金曜日)
ドイツ年間ゲーム大賞審査員は、評論家の審査員である。メンバーは定期的にレビューを書き、出版社や作者からの独立性が義務付けられている。しかし、ボードゲームについて書くとき、批評とPRの微妙な境界線をどうしても通らなければならない。というのもボードゲームを扱う文章はすべて、必然的にマーケティングの性格をもつからである。実際、「ドイツ年間ゲーム大賞はゲーム業界のマーケティング部門以外の何物でもない」という皮肉屋もいるくらいだ。
ドイツ年間ゲーム大賞審査員の決定は、ボードゲームの販売の成功に大きな影響を与える。審査員メンバーは、議論の余地なく絶大な権力を行使する。この理由から、彼らは必ず中立・独立の立場からレビューを書かなければならず、ゲーム業界や関係者との距離を維持しなければならない。それは本質的であり、自明であるべきである。
しかし実際には、この原則を守ることはたいへん難しい。なぜなら、メッセやイベントでいつも個人的に関係者に会うことが避けられないからである。私が審査員になって11年経っても驚かされるのは、距離の概念について説明するときに出くわすたくさんの無理解と誤解である。
ゲーム業界の代表者や、出版社、デザイナーから何度も聞くのはこのような言葉である。「でも我々の関心は同じでしょう? 同じ船に乗り、ボードゲームがよく売れ、ボードゲームが文化として根付くようにしたいという気持ちをもってる。」
誤解である。我々の関心は同じではない。
出版社の関心は、自分たちのゲームができるだけたくさん、できるだけよく売れること。
デザイナーの関心は、彼らの作品ができるだけたくさんリリースされること。
しかしドイツ年間ゲーム大賞の関心は、良いゲームがリリースされることである。ゲーム評論家にはみな、「これだったらリリースされないほうがよかった」と思うゲームがある。
もし出版社やデザイナーが、ドイツ年間ゲーム大賞と同じ関心があるのなら、審査員は全く不要であろう。彼らはどのような了見で、新作の洪水の中に、面白くて推薦する価値のあるボードゲームが現れるの待つというのか? ドイツ年間ゲーム大賞がこれだけ成功したのは、市場が毎年、せいぜい平均的な品質ぐらいのゴミボードゲームでいっぱいになるからなのだ。
そういうと誤解を招くかもしれないが、私は個人的にはゴミに対しては反対していない。それどころか、私もいくつかのゴミを愛し、出版社やデザイナーが財政基盤を確保し、より品質の高い力作を製造できるためにゴミはもちろん必要であると思っている。私にいつも寄せられる次のような言葉には一定の理解をしている。「どんな文化にもたくさんのゴミと平均があるのは、普通で自然なことだ。」
しかし当然のことながら、ゲーム評論家・審査員メンバーとして、ゴミと平均は私の天敵である。お金を稼ぎたい、稼がなければならない出版社の代表やデザイナーと、私の立場は全く異なる。我々は同じ船に乗ってはいない。
なぜならボードゲームを文化として真剣に取り上げてもらうという課題は、出版社の代表・デザイナー・ゲームフリークの多くの方々と同じであるとしても、ゲーム評論家としては、ゴミや平均がこのプロジェクトを達成するのに全く役に立たないと認識せざるを得ないからである。
近年、公共のメディアでのボードゲームコラムが著しく減少している一方、ボードゲームを遊ばない人たちに文化としてのボードゲームの重要性を伝え、書籍・映画・音楽のようなほかの文化と比肩するものであると理解してもらうのが困難になってきていると個人的に感じる。私の命題は、ほとんど全ての人がボードゲームに触れ、ボードゲームを自ら経験し、ボードゲームについて自分の意見を形成することである。ボードゲームはもはや異国のものではない。ボードゲームを遊ばない多くの人は、以前に遊んだことがあるけれども気に入らなかったというだけである。多くの場合、彼らがあまり遊ばないのは、ボードゲームで悪い・平凡な・月並みな経験をしたからである。そして、彼らはそのような経験を繰り返そうとはしない。人々がゴミや平均に基づいてボードゲームの経験をイメージしてしまうと、ボードゲームには本当の文化があると伝えるのが困難になる。したがってゴミと平均は評論家の天敵なのだ。
多くのボードゲームの場合、それらが本当に心を動かされるものではないと比較的早く気付かれることを直視しなければならない。ボードゲーム業界がいつも現代ボードゲームの品質を保証しているにも関わらず、いまだボードゲームで退屈することは大いにあり得る。今や、ボードゲーム業界の関係者たちがどんなにボードゲームがよいものであるか主張したところで、我々にはどうしても誇張されているという印象が起こってしまう。どんなに巧妙なPR策も、ボードゲーム界のジョージ・クルーニーがいても役に立たない以上、ノンプレイヤーが宣伝通りに経験できなければ、彼らを永続的に洗脳することはできない。人々はバカではないし、バカのために買い物をすることもありえない。
ボードゲームは一種のホームエンターテイメントであり、ほかのホームエンターテイメントと競争関係にある。それらと比較すればおそらく、多くのボードゲームは情熱的なゲーマーがいつも吹聴するほど面白いものでは全くない。毎年何百タイトルのボードゲームを試している審査員メンバーとしては正直なところ、審査のための夜のゲーム会はしばしば、監禁のように感じる。ドイツ年間ゲーム大賞の審査員が、本当に大賞にふさわしく、本当に素晴らしいボードゲームを見つけるのに、ここ数年少し苦労しているということは周知の事実である。
ホームエンターテイメントはゴミであってもよい。しかしホームエンターテインメントの一種が文化的外観と社会的重要性をもつようになるとすぐ、別の要求が加えられる。
ゲーム評論家は、ゲームのプロデューサーとは異なり、「ボードゲームが日常生活の気晴らしであり、楽しいもので、売れればよい」という意見をもっていない。ゲーム評論家として私は、ボードゲーム出版社とデザイナーが書籍・コンピューターゲーム・テレビ・映画・スポーツとの競争に対抗できるボードゲームを創出しなければならないと思う。ゲーム批評は、たとえ不快であっても、そのことを示さなければならない。
私には多くのボードゲーム出版社とデザイナーが、文化的・社会的に意義のあるボードゲームを創出しようとしていないという印象さえある。彼らにとっては全く問題ない。ただできるだけ面白いボードゲームを売って、利益をあげ、批判を浴びないようにしたいだけかもしれない。というのも書籍や映画、よいコンピューターゲームでさえもしばしば社会的に意義のあるテーマや、愛、政治、汗、血、涙を題材にしている。それならばボードゲームは普通どんなテーマで作られているのか? ボードゲームがよく文化的なものとしてまともに取り上げられないのを驚く人はいないのか?
ジョージ・オーウェルが語ったというが、その数十年前から言われていた有名な言葉がある。
「ジャーナリズムは、ほかの誰かが公開を望まない印刷物である。それ以外は全て広報である。」
繰り返しになるが、ゲームレビュアーとして、いつもジャーナリズムとPRの間の微妙な境界線を歩いている。
熱心なゲーマーによるゲームレビューの中で用いられている積極主義は、私にとって少し心苦しい。ボードゲームジャーナリズムの中で、熱心なゲーマーが自然に広がり、活発にボードゲーム文化を普及促進し、ボードゲームの価値をほかの人に知らせようとほとんど宣教師プロジェクトのように頑張る。それゆえボードゲームとの距離がない人たちもいる。
しかし距離をおくことは重要だ。何とかして大家族にもクールなボードゲームシーンを提供したいという願いは、ゲーマーとしてレビューを書き始める動機として間違っている。
レビューが、レビュアーの趣味のための資金を獲得し、無料でゲームをもらうためだけに書かれているという印象をもつこともある。文章の中でできるだけ誰も批判しないというスタイルのレビュアーもいる。調和と愛情の欲求は確かに人道的であるが、評論家の仕事にとっては完全に誤った前提である。調和が好きならばこの仕事はミスマッチであり、職人になったほうがよい。愛情が必要ならば犬を飼えばよい!
よくレビュアーは、消費者にボードゲームを薦めることが大事で、それゆえ悪いボードゲームについて書くのは意味がないという。酷評しても誰の役にも立たないと。しかし長年の経験と多くの読者からの反応から、これは大きな間違いだと思う。正直な酷評がなければ、評論家としての信用を築くことはできない。さらに読者に、文化財としてのボードゲームのサービスで悪い経験をしないよう警告しなければならない。しかし薦められるボードゲームしか書かない人は、もちろん平和で、不快な反応には合わないだろう。
ゲームレビューを読んだとき、私はレビュアーにもっと勇気をもって正直に書いてほしいと思う。自分のプライベートの友達に話すように書いてほしい。もちろん誇張したり抑えたりしたレビューも理解できる。ボードゲームシーンの特殊性に私自身いつも痛い目に合わされているからだ。ボードゲーム業界は、ほかのジャンルと比べるとシュールな調和で覆われている。お互いの付き合いが非常に親密で、礼儀正しく、理解力がある。ボードゲーム出版社の編集者は、ライバル関係にあるのに定期的に情報交換を行っている。経済的に競争しているはずのデザイナーも、一緒にテストプレイをする。みんなまるで一つの大家族を形成しているかのようだ。ライバル意識は弱く、お互い助けあっているのは確かに素晴らしくプラスの効果があるだろう。そのため多くの人々が批評に対して過敏に反応し、簡単に個人攻撃をしてくるのも驚くことではない。しかし幸いその付き合いは批評で鍛えることができる。そして批判されたものが全て満足するため、ドイツ年間ゲーム大賞のメンバーはひとりひとり大賞決定の前も後も、たくさんの批評を書き続けている。
http://www.spiel-des-jahres.com/de/spielekritik-oder-doch-nur-marketing