審査員〜フリークかノーマルか?〜
(『フェアプレイ』82号抜粋)
フェアプレイ編集部出身のウド・バルチ氏がドイツ年間ゲーム大賞の審査員に任命された。そこでもう批判が出ている。「フリークが審査員の席に座れば座るほど、ゲームは買われなくなる。そして遊ぶ人も減る……悪循環だ。」そんなコメントが寄せられた。フリークか、ノーマルか。この対比はW.クラマーも『シュピールボックス』誌のインタビューで主張している。彼の言わんとする非難は、このようなものである――ゲーム批評はフリーク向けに偏りすぎており、ノーマルを蔑ろにしている。多少はしっかりしたネット記事が増えているのを見ればこの印象は確かにその通りである。そこではときに複雑であればあるほどよいという感覚をもつのは事実だ。
それに対し印刷メディアでこの非難はめったに起こらない。当然『フェアプレイ』のような雑誌はフリーク向けだ。というのも、めったに遊ばない人は結局ゲーム雑誌など講読しないからだ。
だが指の太さほど厚いルールでひじの長さほど長い時間がかかるゲームは高評価を望めるという主張は完全に誤りだ。『ダイスビンゴ』もフェアプレイ誌ではよい評価だし、分かりやすくて適度に運任せの『テーベの東』は我々のベストゲームに入っている。結局フリーク(趣味をゲームと自認する人)でも、シンプルで短いゲームを好むのである。そこでの条件はただよいゲームであること。ノーマルには簡単なゲームを薦めなければならないという考えは、ゲームの質はそれほど重要でないということに基づくようだ。むろん、いわゆるノーマルがゲームのよさを考えるのは無理かもしれない。比較の対象が少ないからだ。しかし厳しい目はもっている。気に入らなければそのゲームからすぐそっぽを向けるだろう。フリークと同じように。でもフリークにゲーム自体と縁を切ってしまう危険はない。いっぱいのゲーム棚から別のゲームを取ってくるだけだ。
審査員会ではバルチ氏だけがフリークではない。全員がフリークだと思う。2001年、審査員はフリーク向けゲームにあまり真面目に取り組んでいないのではないかという疑いが起こり、反対意見もあったが3人の審査委員が辞任した。そのうち審査員会は今、ビーレフェルトの有名ゲームジャーナリスト、シュテファン・ドゥクシュ氏が座長を務める。徹底的な世代交代である。そしてウド・バルチ氏がよりによって長年座長を務めたズィネス・エルンストの辞任によって空いた席につく。
当時、何人かの審査委員に向けられた非難は、ゲーム界で自分の地位を探していないでとにかくゲームを遊べということだった。実際こんな逡巡があったという。審査員として平均的プレイヤーを私の席に着かせてできるだけ冷淡な評価に限定しよう。客観性を失わないために。ばかげた考えだ。確かに私は観察中心に選んでいるが、そうするのは子どもゲームのときだけだ。しかしここは緊急事態である。私の年令を考えれば、必要な子どもの視点でゲームを考えるのはもう何十年もできると思わない。だが冷淡な客観性は子どもグループのゲームでも私のやり方ではない……。
ゲーム評論家が頑張ってつつましい判断を手に入れるのは、とても小さな数の仲間だけを用いるときである。いつも同じ仲間だといわゆるフリークばかりになり、確かに盲目的になることがある。ゲームの質を測るには、隣人や酒場の客、家族などとも遊ばなければならない。また主観的な判断にはいつも疑問符を置くべきである。審査員がしなければならないのは結局、ベストゲームを見つけることだ。そしてその後でたくさんのベストゲームから1つ、赤いポーンの勝者を表彰することだ。
ベストゲームはグループ、時刻などによっていくらでも変わりうる。審査員がそれに対して決してするべきは、ベストゲームではなくて数少ないよいゲームを選ぶことである。そのために自称ノーマルが重要だ。バルチ氏はベストな審査員だ。
・Fairplay Online: Der Juror