どんな方法論か?
ゲーム評論家がゲームに点数をつけるまで、どのようなプロセスになるだろうか? どんな方法を使うのだろうか? 点数を決めるプロセスを考えていくと、不十分で不透明で、役に立たない方法論に行き着くものである。
ゲームの点数は評論家の「感覚」に基づいており、娯楽程度であって、単なる大衆迎合に過ぎない。というのもさまざまなアプローチが、端的な標語(点数)に置き換えられ、感情を引き起こすからである。点数は、点数では表せないものまで、まるであるかのように信じ込ませてしまう。
驚くべきことに、いつも点数をつけているゲーム評論家と個人的に話をしてみると、点数をつけることには否定的な見方をしているけれども、消費者の期待に応えているのだという人が多い。学校やジャンプ競技ではきちんと定められたそれぞれのパフォーマンスが点数で評価される。そこで同じくらいのパフォーマンスの点数が変わりすぎたら、点数をつける人がよくないことになるだろう。
私は今日まで、ボードゲームに点数をつけることでうまく伝わると思ったことは一度もない。ひとつだけ言えるのは、同じゲームが点数をつける人によって全く違う点数になるならば、それは対象となるゲームの内容というよりはむしろ、点数をつける人の問題だということだ。
どうしたら点数は信頼できるか?
誤解のないように書き添えておくと、私は点数に反対してはいない。評論家は好きなように点数をつけてよかろう。何千、何万と。それでも彼らの仕事に対して私が敬意を失うわけではない。私は単に個人的にゲームの点数に興味がないというだけのことだ。読者としても、物書きとしても。読者としての私は信憑性を推し量るし、物書きとしての私はそれで食べていく。
たとえゲーム市場が点数を求め、読者が抗議の手紙を書いたとしても、評論家にとって信憑性をなくすことほど手痛いことはない。評論家が自分の信憑性をゲーム市場のため犠牲にするのは、ゲームメーカーとデザイナーにできるだけ好かれようとするのと同じくらい無意味なことである。
点数付けは常に「娯楽」としてなら受け入れられる。私自身の現実には影響を与えたり、細かく考えたりすることはない。それならば、どうしてこんなことをここに書くのかって? 答えは簡単。ゲームに点数をつけるよう頼まれたので、ちゃんと説明しなければならなくなったからさ。ここで書いたことは、私の意見をまとめたものだ。よければさらに読み進めて、最後に私に点数をつけて下さい。
意見をまとめるにあたって次のような確信に至った。確実なものがないこの世界で何か確実なものをつかもうとすると、ルール、コンポーネント、イラスト、ひょっとするとゲームのアイデアさえも点数をつけられるものだと。多分ルールやイラストのようなものは現実にも1〜10で計られるのだろう。でも、そのように客観的な点数や、さまざまなゲームの経験をいくつか出し、その中から数学的に平均を計算する試みは、私にとってまったくアホらしい。
いつも念頭に置かなければいけないことは、ゲームというのは、ほかの人と主観的で感情的な経験をするために使える道具とアイデアにほかならないということだ。
(つづく)