「レビュー」と「批評」の概念を区別するのは大事である。地方紙を見れば間違いなく今上映中の映画やおそらく書評集が日曜版に載っているだろう。いろいろなウェブサイト(今あなたが読んでいるもののように)でも同じようなゲームのレビューがある。大部分、これら全ての背後にある目的は同じこと、すなわちこの映画は見るべきか、この本は読むべきか、このゲームは遊ぶべきかということである。つまりそれらはバイヤーズガイド―それは時間やお金を費やす価値があるか―なのである。このことはさらに、レビューされているアイテムをよく知らない人たちがターゲットであることを示唆する(もちろん、これは必ずそうとは限らない。映画などをもう見ていてもそういうレビューを読む人がたくさんいる)。
一方、批評はアイテムを作品として分析し、その真価を厳しく判断するものである。『ゴッドファーザー』は『グッドフェローズ』とどのように匹敵するか。『ユリシーズ』は現代の英文学で一番の偉業か。ピカソの『ゲルニカ』が与えた衝撃とは何か? そのような批評は読者のあなたがその作品を経験すべきかどうかに関わらない。実際、そのような批評はその作品にいくらか親しんでいない人を問題外にしがちである。そのような批評が多くの美術形式に用いられているのに対して、同じことはゲームについて言うことはできない。現在まで、私はゲームに付いてこの展望と意図から書いている人を見たことがない。これがいつの日か変わっていくと考えたい。
―G.Aleknevicus,『レビュー再考』(The Game Journal)
ボードゲームの発売数は増えているし、内容も洗練されてきているのに、新味に乏しいせいか本当に面白いとされるゲームはむしろ減少傾向にある。多くのゲームが「微妙」という烙印を押され、1度きりでお蔵入り。情報はウェブをかけめぐり、売り上げも伸びないから絶版も早い。絶版が早いのでメーカーは数打ちゃ当たるで種類ばかり出してくる。するとまた同工異曲のゲームばかりで「微妙」な評価がさらに増える……これは悪循環だろう。
ドイツのゲームデザイナー、カサソラ・メルクル氏はこれをデカダンス(頽廃期)と表現し、先進国ドイツでも同じことが起こっていることを示唆している。このままいけば、ボードゲーム市場は飽和状態のまましぼんでいきかねない。メーカーはこれを新規ユーザー開拓によって乗り切ろうと、シンプルなゲームと子どもゲームへのシフトや国外の重点化に力を入れているが、どうなることやら。
個人でウェブサイトを開いている人にとって、感動を生まないゲームはレビューを書く気が起きにくいだろう。国内ウェブサイトでレビュー数が2,3年前と比べて減っているのはそのためではないかと思われる。
レビューすらおぼつかないところに批評まで踏み込めるかは分からないが、私には批評を書くことがデカダンスを打開する鍵にすらなるのではないかと思われる。新作ゲームのお尻ばかり追い回して、「この要素は前に遊んだことがある」などと言って原初体験を忘れがちな今、ボードゲームの何たるかを見つめ直す時期ではないだろうか。ボードゲームの面白さに対するしっかりした理解があれば、どんなゲームでも初めてのときのように新鮮な気持ちで楽しめるような気がしている。
このことはフリークだけに効果のあることではない。新たに始めたばかりの人たちにとって批評は読んでもわからないかもしれない。しかし、ボードゲームは批評に値するものだという認識をもってもらうことは、彼らの興味を一層喚起するに違いない。ボードゲームのことをもっと知りたい、もっと遊びたいと。
カタン、ニムト、スコットランドヤード。遊び古したゲームでいい。面白さの源泉はどこにあるのか、自分の限界まで掘り下げた批評を書いてみるのも悪くない。もしかしたらその批評がもととなって、ボードゲームシーンのルネッサンスが起こるかもしれない。