ゲーム批評

そいつを殴り殺してくれ、その犬を! そいつは評論家だ!

トム・ヴェルネック(Tom Werneck)

目次

ゲーム批評? 一体それは何だ?ゲームの「検査」?評論は主観的でなければならない入りにくくしているもの下地だけはできた斡旋術としての批評ゲーム批評はつらいしかし方向は正しい

ゲーム批評? 一体それは何だ?

「お仕事は何ですか?」「ゲーム批評家です!」「ああ、分かります。モノポリーとか……」
そうじゃない。でも私はすぐには殴り殺されない。ゲーテのヨハン・ヴォルフガングが当時、批評作家の仲間に力説したように。しかし私がゲームを新聞や雑誌で評論しているというとき、たいてい無理解にぶつかる。文学批評家だったら少なくとも文学の4人組以来、いくらかは理解される。レストラン批評家だってミシュランの星のおかげで話題になっている。レコードや映画も批評家の耳や目を通して品定めされる。でもゲームは?

ゲームの「検査」?

ゲームの世界にはおそろしいことがある。評論家とは、ゲームを「検査」すると考えている人たちのことだと。それどころか「ゲーム技術監査協会」というのがあって、価値のないものから価値のあるものを選り分けようとしているのだと。私はそれを間違った考えだと思う。ゲームは文化財、しかも日常生活の一部だ。メカニズムの分析だけに限らない。洗濯機なら検査をして、他社製品より性能がよいか調べることができる。1回に必要な電気と水はどれぐらいか、何回使えば廃品になるのかを確かめることができる。ゲームももちろん、そのような視点で「検査」することはできる。上箱を取り外してボール紙を何ヶ月も太陽にさらしておく。この「検査」で色が光に耐えるかどうかを間違いなく確かめることができるだろう。箱の上に重しを乗せれば、ボール紙が頑丈か簡単に折れ曲がってしまうかを調べることもできるだろう。このような試験は確かに客観的な結果を出す点で異論の余地がない。しかし有用かと言えばそうではないだろう。実際何が量られるべきかが全く考慮されていないからだ。そしてゲーム自体、そんなことは関係がない。それならばゲームのルールの品質を客観的に評価できるだろうか? 確かに誤植や文法の間違いは公式にクレームをつけるべきである。しかしドイツ語に誤りがないからといって、ルールが明解で、簡単で、分かりやすいということにはならない。「完全に客観的に」アイデアの独創性や常にゲームから引き出される魅力を評価できるだろうか? 外装と内装が目にも感覚にも好ましいかどうかを、長所や短所を抜きにして事実に即して書けるだろうか? 答えはノー。検査は根拠をもって比較できる仕事の領域に属する。ところがゲームは精神的なプロセスだ。つまり磨きぬかれた障害や困難さえも克服する自由がある。ゲームにおいて検査ははじめからちっとも役に立たない。そしてゲームが検査できると考える人は、ゲームがどのように進行するかという基本的な特徴をただの1度でも知らないことを証明しているだけだ。

批評は主観的でなければならない

客観的な評価基準を最初から考えないというのは、もはや芸術や文化の本質である。批評は主観的でなければならない。批評家に紹介や推薦の役割を認めたいならば、彼らに独立したものさしをもたせなければならない。「自分自身のものさしについて個人として確固たるものをもたない批評家は、単に信用できない批評家だ。基準を定める者ではなく、他の人の成果を繰り返すだけである」とエズラ・パウンドは言う。批評家は通常の意味で「公平」であることはできない。偏っていない判断は価値がない。読者が自分の経験と批評家のものさしを比べ、彼にとってよい経験が期待されるかどうかを読み取ってはじめて、評論家は自分の仕事をすることができ、具体的なゲームを遊ばせることができ、食指を動かさせることができる。しかしそのためには読者はその評論を知るための時間とチャンスがなければならない。批評家の偏愛を自身の好みに合わせなければならない。一致した見解も、相違した価値観も同じ評論家のものとして考えなければならない。そのためには継続が前提となる。そうしてこそ読者が、定期的に現れるコラムのモザイク石材から、生き生きしたゲームの風景を自分で作り上げることができるのである。

入りにくくしているもの

メーカーは批評や批評家を宣伝部の延長とみなしているとマルセル・ライヒ・ラニッキは認め、彼自身ももしメーカーならば、それ以外のことは考えないだろうと付け加える。少ない予算のため、ゲームメーカーはいつも寛大ではない。ゲーム評論家としてやっていこうと思ったならば、ずっとメーカーから犬ひもでつながれることになる。実際、新参者は評論のサンプルにするためのコラムをすでに書いていなければならない。それはときにはコーぺニックの大尉のように、住まいなしには仕事がなく、仕事なしには住まいがないことになる。ゲームなしにはコラムを書けないが、コラムなしには野心に燃えた新参者でもメーカーからゲームを提供されることはない。データバンクと新聞の切り抜きサービスによって、メーカーは評論のサンプルが実際に公開されたかどうかをいち早く正確にチェックすることができる。だから「ゲーム批評」の中には、ゲーム提供を目論んで提灯記事を全くあからさまに書いて、メーカーに気づかせる者がいるのも不思議ではない。いずれにせよこんなひどい状態でゲーム批評の質は間違いなくよくならない。

そして実際、新聞や雑誌はこんなひどい状態である。刊行数がいくらは全く何でもない。そこには不足はないし、日常生活のたくさんのジャンルのスペースがある。音楽、演劇、映画、解説書、娯楽文学、展示会、イベント、その他たくさん。ゲームだけが、しかもまだメーカーの要求が高いまま、多くの新聞で文化の壁の花としてわずかな露命をつないでいる。そんなゲームに突破口を作り、ゲームに必要でありかつゲームに相応しい地位を与えようという話になると、ドイツの紙媒体のマスコミの編集する雰囲気はむしろ希薄だ。そこでゲームは資産になる。ドイツは断然、世界中で最も卓越し、最も革新的なゲーム市場である。約2000万箱、価格にして約5億ユーロ弱が毎年発売されている。統計的に見れば国民の4人に1人が1つゲームを買っていることになる。そしてそれはもちろん、また統計的には4人に1人の読者がゲームを買い、そのための情報とアドバイスを求めていることになる。

下地だけはできた

しかしゲームが依然として低い地位にあるのは、ゲーム批評家の質のせいかもしれない。我々はおそらく依然としてやや役に立っている前段階にあり、そこからゲーム批評をその名前を受けるに本当に相応しいより広い段階にまず引き上げなければならない。いずれにせよ少なくとももう数多くの足場はある。30年以上前、ドイツ語圏でのゲーム評論は指折り数えられるほどだった。今日ではメーカーの報道担当者がもうダースでゲーム批評家やゲーム評論家と呼ばれる人々の名前をデータバンクにたくわえている。ミルクからクリームができるように、一級品が生まれるにはエリートが浮上できるだけの量が必要だ。まさしく農民的な素朴さから知識は得られる。ミルクが多いほど、それだけクリームはうまくなるものだ。要求の多いゲーム批評の前提は―少なくとも理論的には―できあがっている。たとえそれらがたくさんの沈殿物や脱脂乳からなり、ほんの少しのクリームだけが上に浮いていても。
書きたい人たちにメーカーがどんどんゲームを提供するのは、メディアの問い合わせが少ないこととあいまって結局は継続的な質の向上にとって理想的な前提ではない。経験のないゲーム批評家の原稿でよく見られるのは、テキストが手早く書き上げられ、パック詰めされていて、ときにはもしかすると熱狂とゲームの楽しみだけで書いているようで、批判や深みや中身が少ないものもある。評論はゲームの深さを枝葉末節まで戦略的なひだをつけながら描き出すべきであるということでは全くない。それは批評家に前提とされる職人の手腕だ。しかし彼はゲームがより大きな枠組みで見られるべきであり、まとまった文脈に整理されるべきものだということを理解しているのか?広がりのある全体に正しく位置づけることを? そこに我々の前にはまだ歩かなければいけない道が残っている。

「抜群で優秀で卓越した作品に応じるだけの批評をもつ国民はいない」とゲーテは言う。約350~400のゲームが毎年新しくドイツ語圏の市場に登場する。だから材料の不足はない。しかし批評というブラシは、質の低いものには使うべきではない。それは全部を払い取ってしまうだろう。しかし質の低いゲームを全部お払い箱にしても、1年にいつも3~4ダースは、精査する価値のあるタイトルが残る。それは社会の動向を全て映し出す。要求と変革、憧れと思潮、現実と反応。だから程度が高くて的確なだけでなく、それに加えて広いターゲットをもつゲームの批評がまさしくありえるのだ。

斡旋術としての批評

批評は斡旋術だと、アンドレアス・ネントヴィヒはニュー・チューリヒ新聞のちょっとした記事の中で書いている。「それはその題材や卸問屋や市場からは自由だ。しかし読者に依存している。だからそれが扱う作品がどれほど複雑であっても、批評は誰にでも―関心を持っていて始める用意があるが特に前知識のない文化欄の読者に―分かりやすくしなければならない。批評はある判断を下さなければならず、それはアンビバレントな判断だろうが論証として根拠付けなければならない。そこで批評は読者をそそのかしてもよい。いやむしろそそのかすべきだ。というのも批評を読むことは軽い精神活動―表面的な魅惑によって刺激され、それがなければすぐに止んでしまうもの―に属するからだ。評論と批評は読者に対し、刺激と共に指針も与えるべきである。ゲームの発売の形には確かにスタンダードや規格はない。だから、ゲームデザイナーがゲーム毎にその始まりから一つ一つのゲーム進行まで全部新しくするように、評論家もそのやり方を1つ1つの場合で新しくしなければならない。経験と広範な予備知識、それと明解な自分の立脚点があれば何が正しくて適切なのかを決めやすくなる。ディテールに富んだ説明、内容と進行の引き締まった描写、システムの分析、組織立った分類、深く立ち入った結論、あるいは自身の好みによる判断。主観性を前面に出しながらも批評家は、ゲームのどの面を観察し、どんな価値観で題材に取り組んでいるのかを常に見えるようにしなければならない。

ガス管を敷設する者は、その専門家であることを示す証明書を持ち歩かなければならない。ゲーム評論はそうではない。誰でもできる。しかし本当に誰でもできるのだろうか? 能力のない政治家が対処できない問題に対する陳腐な解決策を聞きたければ、居酒屋の常連のところに行くだけでよい。デオキシリボ核酸の分析は喜んで専門家に任せるが、失業問題、外国人、車、女性、サッカー、コマーシャルのことになると我々は玄人や専門家のようになる。しかしよく光を当てて吟味すればたいてい玄人でも専門家でもない。そしてゲーム評論においてもゲームを間違いなくルール通りに遊ぶので精一杯という人を多く見かける。ひどい場合にはものを知らずに、好きなように歪曲して書く者たちもいる。ゲーム評論は決して、それ自体を目的として文化欄の一記事に留まってはならない。そして批評はその人自身の恣意で書いてはならない。そうではなくて、内容によって書くものである。

ゲーム批評はつらい

我々には堅実なゲーム批評が必要だ。それは消えて当然のような批評家が、消えるのがおかしいようなゲームを読者に思い出させる口実にしてしまうようなものではない。もちろん批評家は顧客に注意を払い、読者に向かわなくてはならない。読者が自分の場合に置き換えて利用できるようなお薦めを与えなければならない。確かに毒のある辛口批評はどのみちあくびの出る賛辞よりましだ。しかしある特定のゲームを買わせないことを明確に指示してしまっては、読者がゲームを手にとってくれることは稀だろう。やはり、わざわざお店まで行って、売り手にどのゲームを絶対に買いたくないか言う人はいない。確かに、辛口批評はむしろ意図された効果の反対になることが多い。打ちのめすような判断も読者にゲームについて信頼感を抱かせ、未知のものへの無意識の不安を取る。しばらくあとで読者は指示が肯定的だったか否定的だったかを忘れてしまい、名前を思い出してそのゲームを手に取るだろう。これはゲームを買う最初の重要なステップとなる。だから辛口批評を道具にして批評家は注意深く、つましく振る舞う。だから辛口批評を集中的に用いる機会が多ければ、それだけ一層刃は鋭くなる。しかしそれはおかしい。本当は批評家の批評の効果における創造性は批評されるものに基づく。少なくとも批評が考えうる全ての立場の違いに配慮し、事実に即しているならばそうである。不機嫌にでも破壊的にでもなく、知ったかぶりでも感情を傷つけるようなものでもなく、個性の表現として、個々のゲームを文化的に優れたゲームへの貢献として認識し、観念的な決定の手段によって消化する。

しかし批評される方に学ぶ意欲があり、学ぶ能力があるならば、進歩はそこから生まれるだろう。「よい批評家によって認識され診断されて見るべきものは、よい医者に診察されるようなものだ。それはやぶ医者の無駄話を聞かなければいけないのとはちょっと違う。驚くかもしれないし、傷つくかもしれない。だがたとえ診断が死刑判決だったとしても、真剣に受け止める」とヘルマン・ヘッセは言う。クリスティアン・モルゲンシュテルンはこれを以下のように表す。「私にとって自分自身への注意を失わないための唯一の方法、それが継続的な批評である」と。

拒絶のメカニズムはよく知られている。始めに引用したように、批評家に打ち解けた親しみをはっきりもっていて、それゆえに悪魔にも喜んで立ち向かった詩の大家と同じように反応する必要は確かにない。料簡が狭くて喧嘩好きな取り組み方も多くをもたらさず、容易にぶざまな絶交に終わるだろう。批評家がゲームデザイナーやメーカーをののしることを、人は批評と呼ぶ。しかしデザイナーやメーカーが批評家をののしれば、もちろんそれは単なるののしりである。最も賢明な反応はおそらく、エフライム・キショーンが述べている。「作家が新聞の攻撃に公然と立ち向かうには2つの方法がある。沈黙するか、口を閉じるかである。3番目の解決法を出すならば、それはしゃべらないことである。」

しかし方向は正しい

その名に本当に相応しく、他の文化批評の水準に達したゲーム批評によって話ができるようになるのは、強さも価値も等しい3つのものから輪が生まれてこそである。すなわちたくさんの一級ゲーム、たくさんの高い水準にある批評家、そしてゲームの意味を認識し、それに相応しいスペースを与えてくれるもっと多くのメディア。確かに一級ゲームはあるが、まだまだ少ない。確かに賢くて鋭い目をもつ評論家はいるが、まだまだ少ない。確かに南は『ミュンヘン・メルクル』から北は『北西新聞オルデンブルク』まで新聞には信頼できるゲームのコラムがあるが、まだまだ少ない。そして雑誌、ラジオ、おまけにテレビについてはなおさら全く話したくない。いらいらし続けている。

「混沌にかたちを与える義務は、世界の発展とともに止むことはない。批評が今ほど必要なことはなかった。未来は批評にかかっている」とオスカー・ワイルドはこの言葉を文学批評に向けている。ゲーム批評にもこの考えは当てはまる。そして以上の結論はモルゲンシュテルンが記念帳に書いたことにまとめられる。「どれほど自己批評への意志と能力を高めるかによって、批評の水準も別次元に達するのである。」

トム・ヴェルネック
ドイツ年間ゲーム大賞設立メンバー

※Kritikを「批評」、Rezensionを「評論」と訳し分けた。

ソース:Tom Werneck “Spiele-Kritik“, Spiel des Jahres e.V.

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