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ゲームに勝つこと

 正直なところ、私はゲームに勝つことをあまり好みません。負けた人を気にしてしまうのです。勝者があからさまに勝利を誇るのは、はしたないという気持ちもあります。負けた人には適当な慰めの言葉を丁寧にかけなければなりません。「私が勝ったのは全くの偶然で、本当はあなたが勝つはずだった」「あなたの戦い方はすばらしかった」などとあれこれ考えて言うくらいなら、いっそ敗者になってその言葉を待っているほうがずっと楽です。
 「コンピュータならいいけれど、何人か集まってゲームをやるのはちょっと気が引ける」という理由のひとつに、負けることが恥であるかのような気持ちがあるようです。ゲーム中は楽しくても、ゲームが終って勝敗が決まったとき、何となく気まずい空気が漂うことがよくあります。負けると「つまんねー!!」などと怒り出す人がいたりすると、さらに厄介です。
 しかしゲームのもつ勝敗というこの特性は、不可欠のものであるとも言えます。ゲームに参加する大きな動機は勝って喜びたいからであり、勝敗がつかないで終わるならはじめからしなくてもよかったと思うでしょう。
 ゲームをたくさんやって勝敗を多く経験すればするほど、上手に勝つこと・上手に負けることを身につけることができます。上手に勝つこととは適度に喜ぶことであり、上手に負けることとはへこたれずに次回に期するということです。
 人間は文化を捨てない限り、戦いのない世の中にはなりません。なぜなら、戦いこそが文化発祥の条件だからです。人間の愛憎とそれに基づく悲喜劇、それがいっぱい詰まった豊かな生活は、強いものと弱いものを決める戦いから生まれてきたものにほかなりません。戦争を反対する人でもオリンピックを真剣に見ているのは、戦いこそが人間の本能に根ざした自然だからです。
 そしてもうひとつ重要なことは、戦いが憂いに満ちた人生の気晴らしだということです。長い人生、たくさんの不幸が待ち構えています。そして最大の不幸は死であり、これは何人たりとも避けることができません。もちろんこの問題に真っ向から向き合うことも大切ですが、人間は太古から戦うということによってこの憂さを一時的に忘れてきました。
 現代の若者の特徴は「傷つきたくない、傷つけられたくない」ことであるとよく言われます。その一方で闘争本能を制御しきれずに弱いものをいじめたり、キレて人を殺傷したりしています。政治の世界でもなりふり構わない強者の論理が横行し、第二次大戦の悲劇を忘れた軍国主義の時代がやってくる日も遠いことではないかもしれません。
 そこで、上手に勝つこと・上手に負けることの大切さが俄然光ってきます。ドイツゲームは運と戦略と交渉力のバランスで勝敗が決まります。ただ頭がよければ勝てるわけではありません。コツコツやっていれば運が味方することもあります。また時には思いっきりやることも必要です。同じ方法でも時と場合によって勝ったり負けたりします。その中で自分のプライドをコントロールし、闘争本能を解消して気晴らしを行い、また戦いで勝つコツを身につけるという上手な戦い方を身につけることができます。
 戦争はお互いが物理的にも深く傷つきますが、ゲームではそんなことはありません。たくさんの方々に勝負を恐れず、ゲームを楽しんでもらいたいと思います。