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ゲームに点数?(3)

映画とサッカー
それではいったい、主観的な経験の本質とは何だろう。例えば、映画館である映画にえらく感情を揺すぶられた。そのため気分が高揚してしまい、帰り道も分からないくらいになって、午前2時まで街の中をぶらついていた。ところが半年後、同じ映画をもう一度見たけれど、退屈で居眠りしてしまったなんてことがある。
ゲームを映画と比べるのがちぐはぐなことはもちろんである。映画のストーリーは、主観的な経験のもとになる外的な出来事であり、いつも変わらない。一方、ゲームのストーリーはいつも変わり、外的な条件は一緒に遊ぶ人の性格と人数によって極端に変わる。「ゲームの魅力」を4点にしたゲームが、別の日に遊んだら9点になるかもしれない。残念ながら、私の場合どうしてもそうだ。
点数をつけることについて正直に答えるならば、こう言わざるを得ない。一緒に遊ぶ人の雰囲気、性格、期待、人数によってゲームは、(10点満点中)2〜8点のどれにでもなると。毎回毎回のゲームが個々の経験となり、それが特別なものだったので何か点数をつけたいのだろう。ちょうど特にエキサイティングだったり、フォワードの技術が輝いていたサッカーの試合に点数をつけるように。おそらくブラジル対ドイツ戦は10点で、スイス対ウクライナ戦は2点といったところだろう。
ところが「サッカー」自体のゲームやルールに点数をつけるならば、例えば9点なんかになる。「ハンドボール」は6点、「バスケットボール」は7点かもしれない。もっと言うならば、ゴーカートは8点、かくれんぼは4点か。そのような点数は、それぞれのスポーツや遊びそれ自体の品質について言うのではないだろうか?しかしそれはおそらく、点数をつける人がどれくらい好きではまっているかによるものだろう。
ゲームは誰をターゲットにしているか?
そこからまた言えることは、たったひとつの点数をつけるのは不適当ということだ。遊ぶ人数が2人か、3人か、4人か、5人か、6人かによって全く中身が変わるゲームは多い。ほとんど全てのゲームは2人や3人で遊ぶなら予測可能で戦略的だが、4人や5人で遊べば偶然や運の要素が高くなる。偶然の要素を好む人もいれば、そうでない人もいる。
だが、たとえゲーム評論家がこの要素を点数をつけるときに使うとしても、偶然の要素が大きいことはゲームの品質と関係ない。人と会ったらまず運の要素が大きいゲームからという人も非常に多い。点数なんかよりもずっと実用的で重要なのは、ゲームがどんな人向きに作られているか、ターゲットは誰かという情報ではないだろうか。
さらに、経験が主観的で感情的というだけでなく、ゲーム評論家が感情的で主観的で、ときにはかなり当てにすらならないものだということにもなる。点数によって客観性や確実性を見せかけようとする人は、少々詐欺師のようなところがある。私自身、10回遊んでもゲームが本当に全ての面で把握したかどうか、私の言葉による評価が本当に適当かどうか自信がない。それなのにどうやって予め点数をつけられよう? そのような点数の信憑性を保障できるようなシステムを私は知らない。
真面目なプレーヤーなら、あるゲームでの態度は、ゲームが長引けば長引くほど、遊ぶ人が異なれば異なるほど変わるということを認めなければならないだろう。何年か後に自分がつけた点数を比べながら見直せば、誰しも自分の測定方法がいかに不正確であったかきづくものだ。どんなに真面目に点数をつけているつもりでも、得点リストを見れば幾分か気まぐれがあったことを否定できない。
またゲーム評論家は、点数によって自分自身が直接ダメージを受ける場合もある。つまりテキストを全く読んでもらえなくなるかもしれないのだ。もちろん理論的にはまず記事を読む糸口になるかもしれないが、これについてはあまり話を広げないでおこう。
(つづく)

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ゲームに点数?(2)

どんな方法論か?
ゲーム評論家がゲームに点数をつけるまで、どのようなプロセスになるだろうか? どんな方法を使うのだろうか? 点数を決めるプロセスを考えていくと、不十分で不透明で、役に立たない方法論に行き着くものである。
ゲームの点数は評論家の「感覚」に基づいており、娯楽程度であって、単なる大衆迎合に過ぎない。というのもさまざまなアプローチが、端的な標語(点数)に置き換えられ、感情を引き起こすからである。点数は、点数では表せないものまで、まるであるかのように信じ込ませてしまう。
驚くべきことに、いつも点数をつけているゲーム評論家と個人的に話をしてみると、点数をつけることには否定的な見方をしているけれども、消費者の期待に応えているのだという人が多い。学校やジャンプ競技ではきちんと定められたそれぞれのパフォーマンスが点数で評価される。そこで同じくらいのパフォーマンスの点数が変わりすぎたら、点数をつける人がよくないことになるだろう。
私は今日まで、ボードゲームに点数をつけることでうまく伝わると思ったことは一度もない。ひとつだけ言えるのは、同じゲームが点数をつける人によって全く違う点数になるならば、それは対象となるゲームの内容というよりはむしろ、点数をつける人の問題だということだ。
どうしたら点数は信頼できるか?
誤解のないように書き添えておくと、私は点数に反対してはいない。評論家は好きなように点数をつけてよかろう。何千、何万と。それでも彼らの仕事に対して私が敬意を失うわけではない。私は単に個人的にゲームの点数に興味がないというだけのことだ。読者としても、物書きとしても。読者としての私は信憑性を推し量るし、物書きとしての私はそれで食べていく。
たとえゲーム市場が点数を求め、読者が抗議の手紙を書いたとしても、評論家にとって信憑性をなくすことほど手痛いことはない。評論家が自分の信憑性をゲーム市場のため犠牲にするのは、ゲームメーカーとデザイナーにできるだけ好かれようとするのと同じくらい無意味なことである。
点数付けは常に「娯楽」としてなら受け入れられる。私自身の現実には影響を与えたり、細かく考えたりすることはない。それならば、どうしてこんなことをここに書くのかって? 答えは簡単。ゲームに点数をつけるよう頼まれたので、ちゃんと説明しなければならなくなったからさ。ここで書いたことは、私の意見をまとめたものだ。よければさらに読み進めて、最後に私に点数をつけて下さい。
意見をまとめるにあたって次のような確信に至った。確実なものがないこの世界で何か確実なものをつかもうとすると、ルール、コンポーネント、イラスト、ひょっとするとゲームのアイデアさえも点数をつけられるものだと。多分ルールやイラストのようなものは現実にも1〜10で計られるのだろう。でも、そのように客観的な点数や、さまざまなゲームの経験をいくつか出し、その中から数学的に平均を計算する試みは、私にとってまったくアホらしい。
いつも念頭に置かなければいけないことは、ゲームというのは、ほかの人と主観的で感情的な経験をするために使える道具とアイデアにほかならないということだ。
(つづく)