山形新聞連載コラム(11):人生とボードゲーム

12月27日の日曜随想掲載分。前回はこちら 。1年間の担当なので、連載はこれで終了。


新型コロナウィルスによる巣ごもり生活の影響で、今年は人生ゲームの売上が急伸したという。店舗では軒並み売り切れ、夏頃まで品薄状態が続いた。昭和43年に日本で発売されて以来50年以上、人生ゲームは日本におけるボードゲームの代表格であり続けている。

人生ゲームはもともとアメリカのゲームである。残念ながら現代のアメリカはそうでないことが明らかになってしまったが、万人に均等な機会が与えられ、努力次第で誰でも大成功を収められるという「アメリカンドリーム」がこのボードゲームの基調にある。人生ゲームにおける努力とはルーレットを回すことに過ぎないが、だからこそ小さな子どもでも大人に勝つチャンスがある。これほど公平な世界は、現実にはない。

しかし人生ゲームの結末は、多額の賞金をもらえる「億万長者」と、細々と暮らす「開拓地」に分かれる。この貧富の差もアメリカらしいが、結果の不平等に対するケアのなさに釈然としない方も多いのではないだろうか。こんな残酷な世界が現実にもあると思うと、勝っても負けても楽しくない。

人生ゲームを遊んだ11歳の女の子が、父親に「なんで終わった時にたくさんお金持ってる人が勝ちなの?」と尋ねた話がインターネットで話題になった。読者の皆さんなら、この質問にどう答えるだろうか。「人生」を冠する以上、「ゲームだから」では済まない深い問題である。

経済学では「GDPが増加すると生活満足度も上昇する」という研究があり、お金は幸福に役立つのは間違いない。「衣食足りて礼節を知る」である。しかし「年収が一定額を超えると幸福度は変化しない」という研究もあり、億万長者が一番幸せというわけでもなさそうだ。お金を多く持っていなくても人生の勝者となるには、どんな目標があればよいだろうか。

仏教は幸福ではなく、苦しみがないことを目標にする。しかし苦しみをもたらす老・病・死などは人生に付きものであり、絶対に避けることができない。それらを受け入れるには我執や煩悩を断つことが必要で、そのため日頃の行いを改めていく。これが「四諦」と呼ばれる仏教の根本教説である。

しかし自分の苦しみをなくそうとすればするほど、「自分」という思いに囚われて苦しみから抜け出せない。そこで発想を変え、他者の苦しみをなくすことに専心して、親切な行いをしたり共感する言葉をかけたりしているうちに、結果的に自分も救われていくことに気付く。これが「大乗仏教」と呼ばれる運動の理念である。

自他の苦しみを一番多くなくすことができた人が人生の勝者。その手段はお金でも、知識でも、行動でもかまわないが、効率的なこと、非効率的なこと、あるいは逆効果なこともあるだろう。結果が予想に反することも珍しくないし、人生の最期になってやっとわかることもあるかもしれない。それでもベターだと信じる選択肢をできる限りやってみるしかない。

『アグリコラ』というドイツのボードゲームがある。各自が同じ広さの農場をもっており、そこを畑にしたり、柵で囲んで羊や牛を飼ったり、家を増築したりして、最後にそれぞれの得点を合計して勝敗を決める。さまざまな要素が複雑に絡み合い、どれが一番得なのか、あえてわかりにくくなっている。この不透明さが自分なりの勝ち筋を見つける楽しさと、最後まで勝敗がわからないスリルを生み出すのだ。

この先、何があるかわからない人生でも目標を見定め、そのためにできることを考えていくのは、それ自体が楽しいことではないだろうか。「私は最善を選ぶことはできないが、最善が私を選んでくれる(タゴール)。」

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