5月31日の日曜随想掲載分。前回はこちら
新型コロナウイルスの感染拡大による巣ごもり生活で、新聞やテレビでボードゲームが毎日のように取り上げられているが、筆者も「ボードゲームジャーナリスト」として数社から取材を受けた。わざわざ東京からいらっしゃった記者さんもいて、お互いマスク着用の上、公共スペースのロビーで十分な距離をとってお話した。
取材はたいていボードゲームを始めたきっかけから始まる。学生時代に住んでいた寮で、お金もなく、お酒も弱く、でも時間がたっぷりあったことから友人を誘って『バックギャモン』という双六を遊び、徹夜するほど夢中になった。子供の頃から遊んでいたが、この頃から遊び始めた海外のボードゲームは全く新しいものだった。それ以来20年以上、仲間を集め、インターネットで情報を発信し、時にはドイツ語のルールブックを翻訳して今日に至る。所有するボードゲームはその間に、500種類以上に膨れ上がった。
そこまでハマるボードゲームの魅力は?と聞かれて、ふと思いついて答えたのが「年齢も性別も社会的地位も関係なく、平等な立場でお互いを尊重し合えること。」テーブルを囲めばもうみんな対等で、同じルールで勝敗を競い合って楽しむ。実社会ではなかなか実現できない平等が、人工的な形ではあるが実現しているのがとても心地よい。
ちなみに将棋や囲碁のように、経験や思考力の差で平等とはいえないものもあるが、ボードゲームの主流は運もほどよく加味されており、初心者でも十分勝ち目があるようにデザインされている。さらには前回紹介した「パンデミック」のように全員が協力して勝利を目指すものや、「笑点」の大喜利のように一応勝敗はあるけれども会話が楽しめればそれでよしというものもある。誰でも平等に楽しめることが、作り手の哲学に織り込まれている。
筆者が人権擁護委員を務めて今年で10年になる。法務局や市役所で夫婦喧嘩や近所迷惑の相談に応じ、小中学校でいじめ防止や男女平等のお話をしてきた。いじめ、DV、児童虐待、高齢者虐待、障がい者・外国人差別、体罰、セクハラ、パワハラ、ヘイトスピーチ……この社会には依然として不平等の苦しみが続いている。
仏教は人類の平等や共生を説くが、お寺の住職となると畏れ敬われて、なかなか対等に応対してもらえないものだ。葬儀社の方に深々とお辞儀されたりすると、申し訳ない気持ちにさえなる。しかしそこで勘違いしてはいけないと昔、ある和尚さんから教わった。「みんな、和尚さま、和尚さまといって敬って下さる。法事の後の食事はいちばん上座に席を用意され、みんな次々にお酒を注ぎにやってくる。こちらの言ったことは誰も文句を言わずにたいていその通りになる。こちらが文句を言えばみんな平謝り。でも、それで勘違いして調子に乗ってはいけないと常に私は肝に命じています。調子にのっていばりちらしても、誰もいさめはしません。でもそうなったらみんなみーんな、心の中で(この人はこれだけの人なんだ)と軽蔑していることでしょう。」
多様な人間が対等に付き合っていくというのは言うほど簡単ではない。良かれと思って言ったことでも上から目線と思われることだってある。しかし、ボードゲームを遊んでいると何となくではあるが、対等な感覚がつかめてくるように思う。和顔を心がけ、相手の話に耳を傾け、正しいと思っても自分の意見を押し付けないこと。そうやって信頼関係が築かれて初めて、お互いに対等だと思えるようになってくる。その結果、やけにフレンドリーなお坊さんになってしまうのは良いことか悪いことか分からないが。