対談:デロンシュVSフリーゼ

「暗黒の大広間」「むかつく友達?」など日本にも多くのファンがいる異色のゲームデザイナー、フリーデマン・フリーゼ(2Fシュピーレ)。「マニラ」「トランスアメリカ」などで21世紀になってから注目を集めつつあるフランツ=ベンノ・デロンシュ(裁判官)。この2人の対談をゲームサイトReich der Spieleから訳出した。フリーゼの見かけにたがわぬ夢見ぶりと、堅い職業らしいデロンシュの大真面目ぶりが楽しい。


裁判官と考案者

フランツ=ベンノ・デロンシュはミュンヘンの裁判官。発表作品はビッグシティ(1999、ゴルトジーバー)、アイロンロード(2001、ウィンサムゲームズ)、決算日(2002、ラベンスバーガー)、トランスアメリカ(2002、ウィニングムーブズ)、ヘラス(2002、コスモス)ほか。

フリーデマン・フリーゼはブレーメンで数学を研究している。発表作品は斡旋屋(1998、アバクス)、贋金作り(1994)、フォッペン(1995)、フレッシュフィッシュ(1997)、フリーゼマテンテン(1999)、フレッシュミート(1999)、フリックヴェルク(2000)、電力会社(2001)、フントシュトゥッケ(2002)、看板娘(2002)ほか。

我々がフランツ・ベンノ・デロンシュとフリーデマン・フリーゼという2人のデザイナーに「実験」の参加をお願いしたとき、関係者はみんなまず疑問を感じた。それだけにこの成果は嬉しいものだった。我々は2人に「(ゲームの)ルール」というテーマを用意し、心ゆくまで議論してもらった。2人の話はもっと長かったが、これを少し要約しなければならず、いくらか省略したところもあるのでご注意願いたい。

では始めよう。質問:「典型的な」ゲームルールには、「実際の」人生に反映する要素がありますか?

フランツベンノ:そうね、その答えは簡単、ノーだ。だって、ゲームルールから実際の人生に反映することはなくて、その反対だけだよ。ゲームルールは現実の要素を反映するべきだ。よいゲームは人生をコピーしているからね。しかし実際の人生が何かのゲームルールから借用する理由はない。

フリーデマン:そうね、その質問は簡単、イエスだ! もしよいゲームが全部人生のコピーだったら、私はプレイしないだろうね。でもゲームでは、全く違う人生を送ったり、全く違う現実で遊んだりすることができるんだ。これが私にとって素晴らしいと思うことだよ。

さらに、本当の人生で金持ちはさらに金持ちになるものだけど、そんなのがゲームにコピーされても全く面白くない。格差が広がりすぎるゲームはいつも酷評されるじゃないか。本当の人生をコピーするなら、例えば「カタン」は10点よりももっとプレイしないといけなくなってしまう。そうやってこそ格差が本当に開くんだからね。

法律家たちはゲームからたくさんのことを学んで、ゲームからルールを立法に役立てられるだろう。金持ちがさらに金持ちになり、貧者がさらに貧者になるというのが基本的に現実の問題だとしたら、これを防いだり、軽減したり、経過を見たりするゲームデザイナーのさまざまな手法を見習って、その知識を実際の人生に生かすことができる。

フランツベンノ:でもこの質問はそこまで深い意味はないと思う。(法律として)実際の人生にも必要だし、(ゲームルールとして)ゲームでも必要なルールは何かありますかってことだ。もう実際の人生は無秩序だよね。

フリーデマン:じゃあもういいね(笑)。

フランツベンノ:原則として強者の権利がまかり通る。ルールが通用するのは、ルールを断行し、邪魔するなら処罰を与えられるような権力がその背後にある場合だけだよ。社会では多数決が力をもつこともあるし、それが王様や、特定のグループということもある。それぞれ支配層が、自分たちができるだけ快適になるようにルールを決める。それは自由民主社会から砂漠の専制支配まで全てに原則としてあるものなんだよ。

一方、ゲームではその幅は予め制限されている。つまりルールはプレイヤー全員がゲームを楽しむためになければならないんだよ。そうでなければ遊ばないからね。ここからルールの強制力が生まれる。

モノポリーを例にしよう。誰かが5000マルクでゲームを始めたのに、他の人が500,000マルクだったら、面白くないだろうし、プレイしないだろう。でも実際の人生では、貧しい哀れな者もいれば、大金持ちもいるということはよくあることだ。実際の人生がそうなっているのは、貧しい哀れな者に他の選択肢がないからだ。彼は貧弱な手札からベストを選択しなければならない。一方、ゲームだったら誰でも言うだろう。「なんてひどいゲームなんだ。別のゲームをやるよ、もう」って。

フリーデマン:その通りだね!

フランツベンノ:まとめると、ゲームにふさわしいルールは、実際の人生にありえるルールよりもずっと狭い。なぜならゲームのルールは、プレイヤー全員がこのルールで競い合うときに、確かな楽しみを保証しなければならないからだ。しかし実際の人生にそんな制約はない。だけど人間社会で権力の配分が同等になればなるほど、そのような社会の法律はよい「ゲームのルール」に似てくるだろう。そこでは皆の満足のために法律がはたらくことになるからね。

フリーデマン:だけど現状に我慢して、このような実社会の問題を取り除くよいアイデアを求めてはいけないのだろうか。

このような平等な権力配分はゲームルールで実現され、法律家は例えば計画ゲームを通してルールを生み出している。例えばF1の改良を見よう。フェラーリばかり勝つので観衆がF1全体を完全に見飽きてしまったのを主催者は気づいて、今シーズン始めから新しいルールができた。このような変更はすでにゲームルールでよくあることで、私のゲームデザイナーとしての経験からもよくわかる。

そこで「ゲームルールは現実の要素を反映するべきだ。よいゲームは人生をコピーしているから」という貴方の意見についてだが、それは違う。よいゲームは人生を理想化し、出発点とチャンスが平等なユートピアを作ることに成功している。これを本当の人生に反映する試みをしても悪いことはないと思うが。

フランツベンノ:フリーデマン、貴方は本当に人生がゲームから学ぶべきで、その反対ではないと考えているようだね。よいゲームは人生の現実の写しではなくてユートピア、よりよい人生のモデルだと。

それにはとても感動するね。私のゲームはどれもそこまでの要求に達していないし、貴方のゲームも私が知る限り、本当にそこまでは行っていない。我々ゲームデザイナーの誰も、「よりよい人生のモデル」を目指そうなんて思っていない。我々はただ、楽しくてよく機能するメカニズムを何か考えるのが面白いだけだ。

私の場合、メカニズムが気に入るのは、ゲームのモデルとしてふさわしい現実の出来事を見出すときだ。そして私はこの出来事をゲームで図式化することを目指す。ただし核となるところだけを写すわけだけれどもね。

まずメカニズムがあって、それからテーマをくっつける人もいる。そういうゲームはたいてい好きじゃない。

フリーデマン:ええとね、人生はゲームから学ぶべきだなんて大雑把なことを言っているんじゃないんだ。現実の人生でルールを作る場合、組織の規約作成から世界的に通用する法律の議決まで全部、我々ゲーム愛好者とゲームデザイナーがルール学とルール記述・ルール変更で学んだ知識を応用できるということだ。

そういうルールは現実にもどこにでも見られる。例えばカルテル法とかね。カルテル法はもちろん改良されていくだろうが、そこで法律家は賢く市場を調整できるよう知識を持ち合わせておくし、ゲームデザイナーのように新ルールを導入してきた。例えば先駆者にまだ追いつけるようにして、競争を促すとかね。

ゲームデザイナー全体を見れば、現実の競争を促すたくさんの賢い創造的なアイデアが絶対にある。そして政治家がゲームでたくさん学ぶことができ、その知識を法律に流し込むことができると思うんだ。

でも我々デザイナーが力を入れてよりよい世界のユートピアを作り出すとは私も思っていない。でも少なくともゲームの中で平等なスタート位置があるというようなユートピアの状況はあってもよい。確かに普通の人生では決してそううまくはいかないだろうけどね。

私も現実の世界から面白いと思ったメカニズムを取ってきて、それをゲームに置き換えるというタイプだ。だがそこでもメカニズムをできるだけよい、またはできるだけ遊べるものに理想化する。だからまたもやユートピアになるわけだ。そしてこの改善されたメカニズムは必ず現実のモデルになるだろう。こうしてゲームは現実世界のシステムを検査し改善するモデルとして見るべきだ。どれが役立つか、どうしたら現実を改善できるのかとね。

フランツベンノ:それではスタート位置の問題を政治的な次元から見てみよう。現実の側面が全てゲームのモデルとして役に立つわけではないと私は言いたい。ゲームではどんな場合もスタート位置は平等で、みんな同じ程度やるべきことがある。最初から他の人よりも弱い位置で始めるようなゲームを遊ぶ気にはならないだろう。だから現実の出来事や状況はゲームとは最初から違うんだよ。

この共通で本当に価値が中立的な考えから貴方は政治的な意見を述べている。貴方は、倫理的な原則よりもゲームの論理で要請される制限を実際の人生に持ち込みたいようだね。だったらスタート位置の問題は、「ゲームに典型的な全プレイヤーの機会均等はぜひとも実際の人生の秩序ルールとして持ち込まなければならない」ということになる。

政治的な発言だけから言えば賛同できる。ラディカルに自由で、快楽に基づく能力主義社会にとっては、個々の能力が個々に報われるのが一番よい。そうなれば誰でも自分の能力を有効に使うだろう。そのためにはプレイヤーが異なる持ち金の金額(モノポリー)や異なる勝利点(カタン)で始めて、それに見合った個々の能力に基づくことなしに勝利を得るのは合わない。

だが私はこの政治的な議論がボードゲームの論理による理屈で前進するとは思わない。次元が違いすぎるからだ。ゲームでは問題はシンプルで自分自身に責任が取れる。機会均等でだけ、他の人も関わるのだ。

フリーデマン:私は決して革命的に進めて金持ちの財産を没収し、貧しい人に分け与えたり計画経済をしようと思っているのではない。むしろ社会全体で競争や能力まで高められるメカニズムを見つけるということ、そしてそのメカニズムはゲームで見つけられるとうことなんだ。でも誰にでも機会を与える法律を作り、人々が人生の中で正しく振舞える道を作ることを夢見るのはいけないことなんだろうか。

ゲームから学ぶということは、みんな、または特に劣っている人が、自分の状況を改善する機会を常にもてるような、皆にとって透明なルールということだけなんだ。

Der Richter und sein Denker“, Reich der Spiele

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。