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エリジウム(Elysium)

深遠なる神々のコンボ
エリジウム
オリンポスの神々に名を連ねようとする半神たちが、勇者たちを使って伝説を作り上げるカードゲーム。イギリス人デザイナーコンビの作品で、フランスの出版社から発売され、ドイツ年間エキスパートゲーム大賞にノミネートされている。タイトルの「エリジウム」とは、ギリシャ神話に登場する死後の楽園「エリュシオン」のラテン語読み。死後の楽園に送られたカードは、得点になる代わりに効果が使えなくなる。どのタイミングで死後の楽園に送り込むかがポイントだ。
毎ラウンド場札がずらりと並ぶので、コンボなどを考えて順番に1枚ずつ取っていく。全員がカード3枚と「クエスト」というタイルを取ったら、このラウンドの得点計算。使わないカードを選んで、死後の楽園に送り込む。これを5ラウンド繰り返して、得点を競う。至ってシンプルな進行である。
悩みどころはまずカードの選択。前に取ったカードとの効果や得点のコンボを考えて、あれこれと迷う。さらに、カードには獲得条件がある。各プレイヤーは4本の丸柱を持っており、1枚取るたびに1本ずつ捨てなければならない。みんなが取るにつれてカードが少なくなっていくのに、丸柱が減って選べるカードがなお一層少なくなる。それを見越して、どのカードを先に取るか、ほかの人はどのカードを狙っているかまで踏まえるのはかなり頭を使う。カードを取ったあとに、どの丸柱を捨てるかも悩む。ここがゲームの中心部分である。
カードの効果は取ったらすぐに発動するもの、好きなタイミングで発動できるもの、ずっと効果があるものがあり、その効果は多岐にわたる。しかも、8つのデッキが入っているが、1ゲームで使うのはこのうち3つのデッキだけ。デッキによって、得点を増やす、収入を増やす、ほかのプレイヤーを攻撃するといった傾向があり、組み合わせによってゲームの展開ががらりと変わるだろう。
ラウンドの最後にカードを死後の楽園に送り込むが、無条件に送り込めるわけではない。「クエスト」によってこのラウンドに送り込める枚数が決まっている上に、カードのレベルに応じてお金を支払わなければならない。さらに、死後の楽園ではカードは同じレベルか同じ系統のセットにしなければならず、セットを集めれば集めるほど得点が増す。終盤まで使って、最後に一気に送り込むということができないわけである。一度も効果を使わずに獲得したラウンドで送り込まなければならないことも。「一度も活躍せぬまま伝説となられました・・・」
4人プレイで90分ほど。送り込むときよりも、選ぶときのほうが悩む悩む。「このカードを取って、この丸柱を捨てたら、次の人はあのカードを取るだろうから、別な丸柱を捨てて・・・いやいやこのカードじゃなくて別のカードを選んだらどうなる?」明らかなミスになる手もあるので、じっくり考えた。ポセイドン系統の「金羊毛」(同じ系統のカードを取るか楽園に送り込むたびに収入に)を取り、同じ系統で攻める。「アンタイオス」でほかのプレイヤーのカードを捨てさせ、さらに「略奪者」でお金を奪ってやりたい放題。しかしお金に余裕がある一方、肝心の得点化が甘くなってしまった。コストの高いレベル3のセットを作っているうちにほかのセットが揃わず最下位。
あのときこのカードを取っていればとか、もったいぶらずすぐに楽園に送り込んでおけばとか、まだまだ上手にできる余地があるように思われた。カード選択に熟達が見込まれる作品である。系統ごとに別々のイラストレーターが手がけたというイラストの美麗さも見もの。
Elysium
B.J.ギルバート、M.ダンスタン/スペースカウボーイズ(2015年)
2~4人用/14歳以上/60分

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日本遊戯思想史

遊びは世につれ、世は遊びにつれ。『日本遊戯史』の著者が各時代の遊戯観を、文学作品や役所の記録をもとに構成する。
現代人にとって、ボードゲームは手軽に遊びにくい趣味である。時間を合わせて人が集まるというだけで困難が伴う。自然と時間の短いミニマルなゲームが好まれるようになり、時間がかかる上に値段も高いゲーマーズゲームは(一部のマニアを除いて)敬遠される。この傾向は、ヨーロッパよりアジアが顕著である。さらにいい大人たちが真っ昼間から集まって遊ぶということへの冷たい目や後ろめたさが輪をかける。どうしてそうなるのか。宗教的・経済的な背景とともに、忘れてはいけないのが歴史的な背景だ。
本書を読んで分かるのは、中世から現代にいたるまで一貫して、遊戯は賭博と切り離せなかったことである。中世には貴族が賭け囲碁や賭け双六に興じる一方で、庶民には賭博を度々禁じていた。確かに家財一切どころか宅地まで賭けたり、喧嘩で傷害事件が起きたりするのは治安に悪影響を及ぼしただろうが、不公平なことである。明治初期には賭博をしたものだけでなく、ダイスやカルタを売る者も犯罪者であった。大正創業の奥野かるた店の会長が以前のシンポジウムで、「長い間いい商売だと思いませんでした」と仰ったのも無理もないだろう。
その中で双六打ちが芸能の職人と目された時代があったことは興味深い。これは『本双六』という、バックギャモンのようなボードゲームに高度な習熟を必要としたためであるという。貴族の娯楽/職人の芸能という方向性はそのままカジュアルゲーマー/ガチゲーマーにも通じそうだ。
明治になると、賭博だけでなく遊び一般にも「未開の醜風、賭博同様の所業」「自然に遊惰の風習に陥り」と捉えて敵視されるようになる。富国強兵を目指す明治政府の方針だったが、今日の遊びに対する冷たい目や後ろめたさにもつながっていると思われる。一方で「教育玩具」が登場し、子供たちを軍国主義に染め上げていく。純粋な遊びの道具としてではなく、知育玩具としてボードゲームを子供に与えることへの抵抗感があるとすれば、このあたりの反省ももしかしたらあるのかもしれない。
現代については、公営ギャンブル関係者による賭博の正当化と、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』とカイヨワ『遊びと人間』をはじめとした哲学が紹介され、『レジャー白書』をもとに公営ギャンブルの凋落、伝統遊戯の減少、オンラインゲームの堅調という傾向で結んでいる。
遊戯といえば賭博、賭博といえば遊戯という時代がほとんどだった日本において、賭博に全く関心がないボードゲーム愛好者はどう位置づけられるだろうか。この問題が最後に残る。本書では戦後の高度成長期から、日本レクリエーション協会などによって余暇の問題が考察され、関心が高まったという。全く賭けないでコミュニケーションや勝敗を楽しむプレイヤーの増加は、余暇が市民権を獲得したことや、テレビゲームの隆盛が背景にありそうだが、ほかにも要因があるかもしれない。読者のみなさんはどう考えますか?