ラベンスバーガー125周年
―ボードゲームを追い続けて―
オットーが成人した1874年、E.ウルマーは印刷所と新聞を売却し、出版社をシュトゥットガルトに戻す。1876年にドーンシュ書店の社長が逝去。若かったオットーは共同経営権を相続するため戻らなければならなくなった。書店の仕事には出版も含まれていた。ドーンシュ書店はオットーの前にも小規模ながらボードゲームを出版していたのである。1883年暮れ、オットーは独立して初めてボードゲームの出版契約を結ぶ。これがラベンスバーガー社の1年目に数えられる。
「オットー・マイヤー書店」がゲームデザイナーと初めて契約したのは翌1884年3月だ。ラベンスブルグの教師T.ハフナーが契約を受け、手厚い報酬で6つのボードゲームを大人と少年向けに制作した。その第1作『80日間地球一周』が同社の第1号である。
ときどき行き違いもあった。例えば第3号の『ヨーロッパ新地理ゲーム(Neues GeographieSpiel von Europa)』はオットー・マイヤーとドーンシュ書店の両方から出ている。こういうおかしなことは何度もあり、1956年に出た『アメリカ(Amerika)』も、20年前のロゴがついている。
同社の2つ目の柱は書籍である。中でも特筆すべきなのはC.フォン・シュミートによる児童図書シリーズの成功だろう。これも行き違いがあり、初めはドーンシュ書店から出版されたものが、1888年にオットー・マイヤーに移っている。
3つ目の柱はいろいろな職業の型見本で、毎月注文があった。石工やろくろ職人のような職人はこの型見本を使って直接模様を描いた。後にこのジャンルは手芸やスケッチにも広がる。
ナンバリングの先駆者
当時新しかったのは何よりも、出版物にナンバリングする仕組みである。ボードゲームには発売順に1~499番が割り振られ、注文しやすくなった。今日ではコレクターの役に立っている。『若い地理学者のロト(Lottofür junge Geographen)』の場合、1893年の第1版では番号がなかったが、長年使われていなかったロゴが付された。第2版(1900年頃)で30番が付けられ、ロゴの代わりに作者として「オットー・マイヤー」の名前が明記された。社長がゲーム開発にも携わっていたのである。
1891年にマイヤーはドーンシュ書店を完全に引き継いだが、1893年にまた売却した。会社が順調だったので、書店はもう頼りにしなくてよかったのである。
1902年、この分野では初めて移動セールスマンを導入し、ドイツ語圏の国々でボードゲーム店や文房具店を訪ね、会社の製品を直接売り込んだ。
1912年からはボードゲームを外国語版で輸出するようになった。第一次世界大戦の終戦(1918)までに販売した本など全850製品のうち、300タイトルはボードゲームである。その中には大戦を予言するかのようなゲーム『世界大戦(Weltkrieg)』もあった。1903年にイギリスの作者R.J.ゴーントレットが制作した111番のアクションゲームである。
第一次世界大戦の終わりと終戦直後は、材料不足から新作の数が減少した。そのため下請けに頼らない努力が行われた。こうして現在では製本・製箱・印刷を社内で行うようになった。
建築家だったエーロツキーは、ボードゲームにモダンなデザインを取り入れた。そのためラベンスブルグに引越し、全シリーズをほとんど自身の企画で製作した。残念なことにこのシリーズは30年代前半の経済苦境のために売れなかった。だが彼の試みが、木のおもちゃ屋で扱われる糸口となった。木のおもちゃはパンフレットに記載されていたが、実際には販売されていないようだ。結局、エーロツキーはバイエルン州で建築家の仕事に戻る。ボードゲームのイラストは後にオイゲンの妻となるA.デペンドルフに引き継がれた。彼女による『黒いペーター』が499番で、ボードゲームに割り振られていた番号が使い切られ、1934年からは5501番からナンバリングが始まる。
エーロツキーの後のデザイナーにはM.バンツァーがおり、『動物ロト(Tierlotto)』や『四季(Jahreszeiten)』は今もなおコレクターズアイテムとなっている。またP.パラットは『星つかみ(Sternrupfen)』で同社からデビューし、80年代まで活躍した。
第二次世界大戦も相当の倹約を余儀なくさせた。原材料が配給制だったため、預金だけでしのがなければならなかった。ただ兵士の扶助のため特別配給があり、野戦病院・軍人集会所・駐屯地向けにボードゲーム雑誌を発行していた。
終戦にはたくさんの働き手を失っただけでなく、社長も無傷ではいられなかった。オイゲン・マイヤーが1945年5月8日にボヘミアで亡くなる。ちょうど終戦の日であった。
在庫品を売ることで戦後1年目は何とか生き残ることができた。1946年6月、官僚との長い戦いの後、ようやく新しい専門誌『建築と住居(Bauenund Wohnen)』を出版する。これが大ヒットで会社再建の大きな足がかりとなった。1947年、オイゲンの2人の兄弟は新しい新しい印刷所を設立した。
協力の要素
通貨改革の後、再びボードゲーム製作を考えらる余裕ができる。1948年後期のパンフレットには6つのロト、4つの仕事ゲーム、3つの子どもゲーム、9つのダイス&ボードゲーム、11の子ども向けカードゲームが掲載されている。1949年のニュルンベルク玩具見本市に向けて作られたこれらの製品は比較的少数である。原材料不足が依然として深刻だったためだ。しかし新しいアイデアは不足していなかった。
カール・マイヤーは亡くなったオイゲンの挑戦を次第に引き継いでいく。1952年末にはボードゲームの製品が90タイトル、うち13タイトルが新作というほどまで成長した。商業的には『帽子とりゲーム』に及ばなかったが、『魔女の家(Hexenhaus)』という協力の要素をもった作品も生まれる。
オットーの死後、カールは1952年に第3世代を経営に入れ、徐々に管理を任せていった。1958年からE.グロネッガーが単独で指揮している。
グロネッガーは1951年に販売部から始め、後にワードゲームを制作。1957年にはベストセラー『君がセンターフォワードだ(DerMittelstürmer bist Du)』を担当した。75周年には『雲の上の家(Wolkenkuckuckshaus)』や、ラベンスバーガー初の魔法ゲーム『魔法使い(Zauberkünstler)』が発売されている。
1959年にはメモリーゲームのサクセスストーリーが始まる。1960年には『マーレフィッツゲーム(Malefitzspiel)』のヒットが続いた。この年には4桁のナンバリングが終了し、新しい5桁のナンバリングでは種類とテーマによって区分されることになった。
パズルは1964年から扱い始め、2006年には(レジャー産業を含む)総売上の3分の1を下らないほどになる。
木のおもちゃは、今度は子ども向けとして60年代末から再挑戦したが、やがてまた取りやめとなった。その代わりにラベンスバーガー―「オットー・マイヤー」に代わってこの名前が徐々に用いられ、1973年には青い三角に白抜きのデザインになった―は、家族向けと大人向けのボードゲームを強化する。特筆すべきなのは1968年のスタジオシリーズ、1972年からのカジノシリーズ、トラベラーシリーズである。
1972年に始まったコンパクトシリーズはよく売れ、1974年のいわゆる携帯ゲームのさきがけとなって、今日に至るまで成功を収めている。
1963年から国際舞台に
ラベンスバーガー発の面白い家族向け、大人向けゲームは何度も大賞の栄冠に輝いた。1979年に『ウサギとハリネズミ(Hase und Igel)』で初の年間ゲーム大賞受賞、1982年に『ザーガランド(Sagaland)』、1999年に『ティカル(Tikal)』、2000年に『トーレス(Torres)』(FXからラベンスバーガーに移行)が続いた。アレアのレーベルでフリークの心もつかみ、1991年以来、ラベンスバーガーとアレアはドイツゲーム賞を5回獲得している。
国内の好調な売上と高い評判にもかかわらず、ラベンスバーガーは早い時期から輸出を本格的に行っていた。国内市場だけではさばけない余剰分だけで、アメリカからドイツとヨーロッパにひしめくコンツェルンと互角に戦っている。こうして1963年のオランダから始まり、ヨーロッパ各国に姉妹店を設立する。F.X.シュミットの買収によって、1998年にはアメリカ支店も加わった。今日、合計11の外国の支店が売上と収益に貢献しており、西ヨーロッパのボードゲームで3位の地位を確保している。
社史から分かることは、責任と熟練で運営されてきた家族経営が125年間成功するためには、賭博師はいらないということだ。さらに愛され続け、25年後にまたお祝いされることだろう。
R.リューレ 『シュピールボックス』2008年2号より