Posted in ゲーム賞

メンサセレクト2010

高IQ者のみ入会を許される団体メンサのゲームイベントが先週サンディエゴにて行われ、200名の参加者によって今年のメンサセレクト(Mensa Select)が決定された。49タイトルの候補から選ばれた今年の5タイトルは、『ドミニオン』や『マラケシュ(ズライカ)』が選ばれた昨年とは打って変わって非ヨーロッパゲームが並んでいる。
メンサ賞は1990年から始まるゲーム賞で今年で21回目。1月に発表されたドイツ・メンサ賞とは別で(ドイツ・メンサ賞に『頭脳絶好調』)、アメリカの会員が選んでいる。
【メンサセレクト2010】
アノミア(Anomia)カードで指示されたプレイヤーより早く人物・場所・物事を挙げるリアクション&トリビアゲーム。自家出版。
ディジオス(Dizios)絵柄が合うようにサイケデリックなカードを並べて得点するドミノ系配置ゲーム。
禁じられた島(Forbidden Island)『パンデミック』のM.リーコックによる、協力探検ゲーム。
ワード・オン・ザ・ストリート(Word on the Street)カードに指示されたジャンルの単語を考えてスペルを進めるレースゲーム。
イカーズ(Yikerz!)ほかの磁石とくっつかないようにボードに配置するアクションゲーム。
Boardgame News:Winners of the 2010 Mensa Mind Games
Boardgame Geek:Mensa Select winners 2010

Posted in エッセイ

勝敗かコミュニケーションか、ではなく

ボードゲームの目的として、勝敗かコミュニケーションかというのはよくある話である。「スタイル、好み、経験」で、前者寄りをトーナメントプレイ、後者寄りをカジュアルプレイと呼び、このスタイルの違いが想像以上に大きいことを指摘した。
例えば、鈴木銀一郎氏が「ときどき、『ボードゲームはコミュニケーション・ツールだ』とか綺麗事を言う人がいる。 とんでもないね。勝つことにこだわらなかったら、ゲームなんてつまんないですよ。」(Si-phon Game Club Vol.1)というとき、至言だ、全くその通りだと思うか、とんでもない、ボードゲームはあくまでコミュニケーションツールですよと思うかは大きく分かれそうである。
しかし勝敗とコミュニケーションのどちらを重視するかというのは、「誤った二分法」「偽りのジレンマ」である。ひとつには、択一ではなく、両立できるものだからである。実際ほとんどの人が、意識的であれ無意識にであれ、ゲーム(アブストラクトゲームかパーティーゲームかなど)やシチュエーション(2人か多人数か、ゲーマーか否か)によって両者のバランスを調整しているはずだ。

 はてさてゲームの目的はどちらなのだろう? 勝つこと? それとも楽しむこと?
 結論は、常識的なものであろう。ゲームとはこの二つの目的を同時に果たすものでなくてはならない。(中略)楽しくあれば何でもいいとばかりみんなが勝負を度外視してやっていたら、ゲームは成り立たない。勝つことばかりを考えた目の血走ったゲームも願い下げであるが、どっちでもいいといったふうな弛んだゲームもうんざりである。(草場純他『ゲーム探検隊』16ページ)

もうひとつは、ボードゲームの目的としてほかに選択肢がありうるからである。 そのほかの選択肢にもいろいろありそうだが、私は芸術鑑賞を挙げたい。コンポーネントやイラストの美しさ、アイデアの斬新さ、システムの完成度など、ボードゲームの芸術性を味わうために遊ぶというのはどうだろうか。
現代のボードゲームはもう芸術の域にまで高められており、音楽を聴いたり、絵画を見たりするように鑑賞する価値がある(ただしボードゲームを鑑賞するには、人間の側がプレイヤーとして積極的に働きかけていくことが求められる)。
勝敗重視もコミュニケーション重視も、ボードゲームを手段として見る点で共通するように思う。だとすれば、その手段がボードゲームでなければならない必然性がない。スポーツだってケンカだって勝敗はつくわけだし、mixiだって携帯だってコミュニケーションは取れる。それに対し、ボードゲーム自体を目的視し、その価値を最大限に引き出す。
ボードゲームそのものを味わうといっても、一緒に遊ぶプレイヤーを無視するわけではない。いろいろな視点をもった人たちが一緒に向き合うことによって、自分だけでは見出せなかった価値を発見することができる。眺めているだけ、ルールを読んでいるだけでは分からなかったポテンシャルを、仲間と共同で引き出すのだ。
ボードゲームは総合芸術である。コンポーネントの隅々まで、ルールが織り成すシステムの端々まで漏らさぬよう、五感を研ぎ澄ませ、デザイナーに深い敬意を払って「作品」に向かい合いたい。
(付言しておくが、これも多種多様な目的のひとつであって、これが一番と言っているのでもないし、ましてや誰かに強要するものでもない。勝敗かコミュニケーションかで綱引きするのは不毛ということを言いたいがために示したものである。また、この論考の中で、ひとくちに勝敗といっても、ゲームで1位を取ることばかりとは限らないということに思い至った。この件については別稿に譲る。)