最終章で著者は、精神科病棟の談話室に置いてあった『ウノ』を入院仲間と遊んでいた話を紹介する。中には『ウノ』ができない人がおり、情報を集めて外出時にいくつかボードゲームを購入してきたという。本書では『カルカソンヌ』と『マスカレイド』が紹介されている。
『ウノ』ができない人が『カルカソンヌ』なんてできるの?と思うかもしれない。しかし『カルカソンヌ』は隠された手札がないのでアドバイスできること、ゲームが終わった後に盤面がきれいなことがあって、『ウノ』が苦手な患者さんにも楽しんでもらえたという。そのようなメタレベルでの協力が成り立ちやすいゲームが『カルカソンヌ』で、成り立ちにくいのが『ウノ』だったというわけである。
うまくあそべない人に、「おまえは能力が低いなあ。もっと勉強しろよ」なんて、言わなくてもいい。むしろ「能力が低い」プレイヤーがまじっても、みんなが最後までたのしめるようなデザインのゲームを、みつけてくればいいのです。
考えてみれば、子どもや初心者と遊ぶとき、アドバイスしながら遊ぶことはよくある。過剰でなくて適切なアドバイスをすることで、ゲームはみんなにとってより面白いものとなる。ルール上は勝敗を目指すし、実際勝敗もつくけれども、それとは別の次元で、みんなで楽しもうという協力関係が成り立っているのである。アドバイスに限らず、ゲームを盛り上げるコメントや、上機嫌で臨むこともこれに含まれるだろう。そのような振る舞いで参加者みんなが楽しめるボードゲームを、意図的であれ無意識であれ愛好者は選んでいる。
このように人をゲームに合わせるのではなく、ゲームを人に合わせるという発想から著者は「アフォーダンス」という概念に言及している。健常者に走るという能力があるのではなく、平らな道に人を走らせるという能力があるというように、「能力」の主語を、人からものへと移しかえる。障害は人ではなく環境にあるという「社会モデル」にも通じる新しい考え方である。能力の差を織り込み済みで、それを心地よさや楽しみにつなげていく。だからこそ、ボードゲームは種類が多ければ多いほど、それだけTPOに適合しやすくなる。
同様に『マスカレイド』では、手札は伏せられているが協力関係が成り立つ。その協力関係込みで、ゲームの魅力になっているという。
ルールが十分飲みこめず、うっかりだれかを勝たせてしまいそうな人がいたら「このままだとあの人があがっちゃうから、こうしてよ」と、ほかの人が頼めばいい。「あの人はゲームをわかっているから、まかせよう」・「この人はわかってなさそうだから、自分の手番をつかって、かわりにあがりを阻止しておこう」というように、ほかのプレイヤーの「能力」をみきわめながら、戦略を変えてもいい。
著者はボードゲームを「療養体験の中で最も、回復と思考のヒントをくれた媒体」としている。能力の優劣による対立から、個性を認め合う共存へ。ボードゲームが心の病の療養に効果があるというだけでなく、人間観さえも変えてしまう力があることを学ばせられる。