ハンス・イム・グリュック ―そのサクセスストーリー―

1990年代のドイツゲーム界を語るに欠かせないゲームメーカー,ハンス・イム・グリュック社についてmeOmeに掲載されたヘラルド・シュレーパーズ(Harald Schrapers)による記事をまとめました.

ハンス・イム・グリュック社(以下ハンス社)は、南ドイツ・ミュンヘンにあるゲーム出版社です。1983年にベルント・ブルンホーファー(Bernd Brunnhofer)とカール・ハインツ・シュミール(Karl-Heinz Schmiel)の2人によって創立されました。創立当時は車庫を事務所にし、第一作「ドッジ・シティー(Dodge City)」の150個から売り始めたこの会社は、2001年には4度目の大賞受賞作「カルカソンヌ」を70万個売るに至りました。

大賞の受賞なしにはハンス社は今日このような形をとることはなかったでしょう。受賞作の高い販売数が、このゲーム会社の経済基盤をもたらしました。この会社を経営したのがベルント・ブルンホーファーです。

しかしハンス社のもう1人の創始者、カール・ハインツ・シュミールはゲームデザイナとしてその名を知られます。2人は第一作「ドッジ・シティー」を車庫で自作しました。もっとも、このゲームは完全なオリジナルゲームではありませんでした。「名付け親(Der Pate)」という他のゲームからアイデアを取っています。「我々はこのゲームを本心から自分たちが作ったゲームだと思えるくらいまで作り変えた」とブルンホーファーが言っています。

結局「ドッジ・シティー」はわずか1000個しか製作されませんでした。1984年にはアンドレアス・トリーブ(AndreasTrieb)作の「森の動物(Tiere im Wald)」を生産、1985年にはブルンホーファー作の「グレーハウンド(Greyhounds)」を2000個作り、ゲーム大賞にノミネートされました。続く1986年にはカール・ハインツ・シュミール作のによる「ディ・マッヒャー(Die Macher)」によってその名を広く知られるようになります。

1987年には2つの事件が起こりました。アメリカ資本の大会社・マテル(Mattel)社が「グレイハウンズ」「ロックアイランド(Rock Island)」という2つのゲームのライセンスを取得し、ハンス社はそのライセンス料で大金を手に入れます。そしてブルンホーファーはそれまで2人だけの趣味程度だった同社を、フルタイムの仕事に変えます。

オーストリア生れのブルンホーファーはミュンヘンの大学で社会学の講師をしていました。博士論文を書いていたときには常勤になるチャンスもありましたが、「とにかく面白さを感じた」とハンス社に人生を賭けます。一方教師として働いていたカール・ハインツ・シュミールは仕事を続け、彼と分かれることになります。「私は仕事を途中でやめた。そしてカール・ハインツ・シュミールはやめようとしなかった。」これを機に、シュミールは自身の会社「モスキート(Moskito Spiele)」を作ります。その後10年間はシュミールが休暇を利用して作ったゲーム(「エキストラブラット(Extrablatt)」「ヴァス・シュティヒト(Was Sticht?)」「アラカルト(a la carte)」など)がモスキート・シュピーレから発表されていました。

しかしブルンホーファーとシュミールが断交していなかったことは、1997年に明らかになります。ハンス社はシュミールの「ディー・マッヒャー」をリメイクし、モスキートのロゴを箱に印刷しました。2000年末には、ハンス社新作のテストプレイヤーとしても関与していたカール・ハインツ・シュミールが「アッティラ(Attila)」を発表します。

そのような訳で1987年からブルンホーファーは1人でゲームを製作するようになります。彼としては自身でデザインをしたかったのですが、実際には編集者としての仕事が課されることになります。ハンス社の2タイトル「グレイハウンズ」と「ロックアイランド―西への道(Zug nach Westen)というタイトルで」が1988年にマテル社から出版されます。ライセンス料として手に入れたお金は新作を作るためにすぐに消えてなくなりました。経済的にハンス社は「切り売りしながらの騎行」だったのです。

1989年には「満足に売れた最初の作品」である「マエストロ(Maestro)」が発表されます。収入はやっとすぐに投資に消えないようになりました。この作品は大賞にノミネートされ、ゲーム賞の前身「ゴールデンペッペル」に入賞します。現在の内容と比べると「3~4分の1のプロ作品」だったと言いますが、これによってハンス社の販売数は5桁になりました。翌年に発表された「1835」も、(売れるようになるまで)時間はかかりましたが5桁の売上を記録しました。

1991年はハンス社史上とても幸せな年でした。クラウス・トイバーの「ドリュンター・ドリューバー(Druenter & Drueber)」が大賞を受賞し、初年だけで30万個の売上を記録したのです。これはそれまでの売上オーダーの100倍にあたります。

「ドリュンター・ドリューバー」とその受賞によって、ハンス社は長期間の開発に堪える潤沢な資金を手に入れました。これによってブルンホーファーは社員を雇い、販売パートナーとしてベルリンのゲーム会社「ファン・コネクション」と提携します。ファン・コネクションはとくにフランスゲーム「アバロン(Avalon)」のドイツ販売を手がけていました。

しかしその提携は長く続きませんでした。1993年のエッセン・ゲーム祭の10日前、ファン・コネクションは在庫を安値で処分したいと伝えてきました。ファン・コネクションは経済的に困窮しており、急遽資金がほしかったのです。ブルンホーファーはこのダンピングに反対し、何の成果もないまま、ファンコネクションから手を引きました。そして提携した新しい販売パートナーが「シュミット(Schmidt)」レーベルで知られる同じベルリンのブラッツ(Blatz)社です。これによってPR体制も整うことになります。

1994年と1996年にハンス社はそれぞれ「マンハッタン(Manhattan)」と「エル・グランデ(El Grande)」で年間大賞を受賞します。この2アイテムは年間30万個の販売数を記録します。これで売れ筋でないものも含めて販売アイテム数も増やせるようになりました。

毎年200~300のプロトタイプがハンス社に集められ、その中から実際に製作されるゲームが選ばれます。ブルンホーファーがミュンヘンのゲームサークルなどを動員しつつ、テストプレイで内容をチェックしてから発売しています。どのゲームを出すかは、最終的には必ずブルンホーファーが決めています。しかしどんなゲームが売れるかという予測は、長い経験をもってしてもまだわからないと言います。「明白なものは何もない。後になってからならば、なぜゲームが売れたか理由を挙げることはいくらでもできるのだが…」

市場の不確実さを示す例が1999年に出されたカードゲームシリーズです。最初の4作は販売成績がよくありませんでした。ところが5つめのゲームはメガヒットになりました。それが「操り人形(Ohne Furcht und Adel)」です。だからブルンホーファーは、傑作のリメイクや、シリーズ化するだけでうまくいくということに異議を唱えます。「少なくともハンス社ではそうではない。」

年間大賞のベストセラーと並んでブルンホーファーは「モダンアート(Modern Art)」や「チグリス・ユーフラテス(Euphrat und Tigris)」などの「ほとんど同じくらい主力」のゲームを出します。どちらもドイツゲーム賞を受賞しましたが、10万~20万しか売れませんでした。しかしそれは紛れもなく重要な「想像力の成功」でした。「我々はとても強力にゲームシーンを作り上げている。」2001年には大賞受賞だけでなく、高い知名度として重要な「カルカソンヌ(Carcassonne)」と、ドイツゲーム賞を受賞した「メディナ(Medina)」が発表されました。

ハンス社が拡大する計画があるか、もっと大きな企業になりたいかという質問に、ブルンホーファーは否と言い、逆に「何のため?」と聞き返します。ブルンホーファーはたった一つの、ミュンヘンの小さい会社の目標に忠実なままです。

「ただよいゲームを作ること」