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ソロプレイ感

ボードゲームのネガティブな評価として「ソロプレイ感(またはソリテア感)」というものある。インタラクション(プレイヤー間の相互干渉)が少なく、ゲーム中まるで一人でコンピュータゲームを遊んでいるかのような感覚になることをいう。

インタラクションというのは、システムとして競り、交渉、交換、協力、直接攻撃、数比べ、レース、ブラフなど。いずれもほかの人の動向を絶えず観察し、牽制し、ときに利用するもので、ボードゲームの楽しさの源泉となっている。

ボードゲームの大半は何らかのインタラクションをシステムとしてもっている。しかしこうしたシステムを用いない、あるいは用いたとしても勝敗にあまり影響しないというゲームが「ソロプレイ感」の強いゲームと言われる。直接攻撃・直接妨害がないゲームだけを指すのではないことはBunkeiさんが述べている(「ソロプレイ感とお仕事感と。」)。

最近ではクラウス・トイバーが脱カタンシリーズで発表した紀元1503(2003年)」、「カンダミール(2004年)などがそうで、インタラクションのなさがマイナス評価につながっている(特にカンダミール。例えばH@LL9000の評価を参照)。

サンファン(2004年)」もプレイヤーの行動がほかの人にあまり影響しないという意味でソロプレイ感を感じた人もいるようだが、その元になったボードゲームプエルトリコ(2002年)から見て相対的にということだろう。評価自体は低くなかった。

また変わったところではウボンゴ(2005年)がある。一斉にパズルの早解きを競うこのゲームはインタラクションが薄いけれども、短期決戦のためかこれも評価は悪くない。

こうしたゲームを遊ぶとき、ソロプレイ感を緩和できればもっと楽しさを引き出せるはずだ。

まず考えられるのは、ソロプレイ自体を楽しむということである。ゲーム中は誰からも干渉されない自分だけの世界を大事にする箱庭療法のような楽しみ方だ。あるいは脇目もふらず全力を尽くして疾走するウボンゴ的な楽しみ方(新作郵便馬車(2006年)もそういう面白さがある)。結果はふたを開けてのお楽しみとしてゲーム中はあまり気にしない。あまり干渉を好まない内向性のある人にとっては、直接攻撃のすさみ系ゲームよりは、これ自体でずっと楽しめるだろう。

しかしそうでもない、人が集まるからには人をこそ楽しみたいという人には、そのゲームのより深いところにインタラクションを隠れていないか探すことを勧める。数多くの新作がどんどん発売される今日、多少面白くても1度遊んでそのままというゲームは多い。しかし何度か遊んでみると1度目には気がつかなかったゲームの機微に気づくこともあるのだ。

クレオパトラと建築士もどちらかというとインタラクションが薄いが、ほかのプレイヤーの非公開情報(お金と汚職チップ)を読み、それを自分の行動に反映させると考えれば決してソロプレイ感はない。

さらに、ノリのいいプレイヤーならば、システムとは関係なく、会話レベルでインタラクションをするという楽しみ方もあるだろう。ゲームの登場人物になりきってRPG風にしたり、ボケとツッコミ、ダジャレなどを交えてお笑い風にしたりすれば、世の中に面白くないゲームなんてない。

もっとも、ゲームに合わせて性格や遊び方を変えられるほど器用な人はあまりいないから、現実には、内向的な人、システムの深みを研究したい人、ノリのいい人と遊ぶならば、インタラクションの弱いゲームを出してもよいということになるだろう。ここでの結論はソロプレイ感を感じたらインタラクションの要素をもっと探そう、会話でつなごうということにしておく。

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お仕事感

この頃あちこちで「お仕事」という言葉を聞く。ボードゲームでは「やりたくないのに、状況的にトップのプレイヤーを妨害しなければならない一手」を指すようだ。「お」という文字が付くことで、自己犠牲による妨害という両者にとって悲惨な状況を巧妙に包み隠している*1

例えばこのまま何もしないと次の手番で1位が上がってしまうというようなシチュエーション。不慣れな人が目先の利益に走ろうとしたとき、「お仕事しなきゃあ!」の声が上がる。

ゲーム慣れした人から見れば、全体の順位関係を見ないでつまらない一手を打ち、そのままゲームが終了してしまうというのは耐えられないのかもしれない。その気持ちは分かるが、言ってしまうのは「おせっかい」という問題になる(TGWコラム「困るんです」よりおせっかい参照)。これは別の問題なので、今回は考慮しない。

しかしこれとは別に、同じシチュエーションで自分が止めなければいけないことに自分から気づく場合はどうか。しかもその手は自分に利するものでは全くない。これが終盤延々と繰り返されてぐだぐだになったりすると、「このゲームはお仕事感がある」といってゲームの評価を下げることになる。クラマーによるよいゲームの定義によると、直接的には「キングメーカー効果がないこと」の欠損、間接的には「最後まで全員に勝つチャンスがある」「ゲーム終了までに緊張感が持続する」という2要素の欠損ということになろう。

しかしこの問題は果たしてゲーム・システムの非に一方的に帰せられるものなのだろうか。Bunkeiさんはこうした「お仕事」が、「場の雰囲気に強制されて」「納得して自分の手を選べ」ないものと捉えている(「ソロプレイ感とお仕事感と。」)。たとえそれがシステム的に要請された一手であっても、その手にどれぐらい主体性があるか、自由に好きな手を選べているかはプレイヤーの側の問題なのだ。

プレイヤーの主体性というのは、そのプレイヤーにとってのゲームの目的によって中身が異なる。勝つことを主目的とする所謂トーナメントプレイ寄りならば、「お仕事」をしてゲームを延長させ、その間に少しでも自分の順位が上がる努力をすることになるだろう。その一手はあくまで戦略的な一手であり、「お仕事感」はあるまい。

一方楽しむことを主目的とする所謂カジュアルプレイならば、ウケを取れる一手を狙うか*2、もうこのまま盛り上がりそうにないならば「うっかり」妨害を忘れてゲームを終了させてしまうという手もある。これまた「お仕事感」がなさそうだ(「うっかり」忘れたプレイヤーを、いくら勝ちたいからと言ってほかの人が非難するべきではないことは、hardline1971さんも述べている(「理由のないことは悪くない」)。

こうしてみると「お仕事感」は、プレイヤーが目的意識をもって主体的にゲームに参加することで、同じ手を打っていてもだいぶ緩和されるのではないかという期待される。またそのためには、明言的であれ暗黙であれ、お仕事を強制しないようにほかの人も協力することが前提になる。すなわち、参加者同士が、お互いの目的やプレイスタイルを尊重しあうということが望ましい。「仲良く喧嘩しましょう」「積極的に遊びましょう」というありきたりな結論だが、実際のプレイ中に意識しておきたいことではある。

*1:似ている言葉に「作業感」というのがあるが、こちらは妨害というよりも、手番の手続きが無駄に煩雑な場合に用いられるようだ。

*2:こういうサディスティックな楽しみも、ゲームの魅力だと思う。