先月から今月にかけて、市内の集会所「まちの楽校本町館」にて、3回にわたる仏典講座を開催した。『法句経』をパーリ語原典で読むという試みである。
『法句経』などの初期経典は、お釈迦様の言葉(仏説)が多く(全てではない)含まれたお経だと言われるが、北伝仏教ではあまり重視されなかったため、伝統仏教ではほとんど読まれることがなかった。近代のヨーロッパ人研究者によるインド学によって、日本でも徐々に知られるようになってきている。『般若心経』の難解さと対比すると、平易で分かりやすく、心にさっとしみこむだろう。
講義では文法的な解説をせず、ローマナイズした原文をさらっと読んでもらって、逐語訳していき、全体の解説をするという内容。中村先生の岩波文庫版も適宜参照したが、できるだけ自分の言葉で翻訳するように努めた。条件節にあったnaが帰結部に移っただけで意味ががらりと変わるなど、翻訳すると分からないことも発見できた。
1回目は怒らないことがテーマ。ダンマパダの冒頭の6偈である。
dhammA manopubbaGgamA manoseTThA manomayA ce paduTThena manasA bhAsati vA karoti vA tato dukkhaM naM anveti vahato padaM cakkam iva. //1//
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその者につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。
dhammA manopubbaGgamA manoseTThA manomayA ce pasannena manasA bhAsati vA karoti vA tato sukhaM naM anveti anapAyini chAyA iva. //2//
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその者につき従う。影がその体から離れないように。
maM akkocchi maM avadhi maM ajini me ahAsi ye taM upanayhanti tesaM veraM na saMmati. //3//
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだく者には、怨みはついに止むことがない。
maM akkocchi maM avadhi maM ajini me ahAsi ye taM na upanayhanti tesaM veraM saMmati. //4//
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだかない者には、ついに怨みが止む。
idha verena verAni kudAcanaM na hi saMmantI averena ca saMmanti esa sanantano dhammo. //5//
実にこの世においては、怨みをもって怨みが止むことは決してない。怨みをすててこそ止む。これが永遠の真理である。
ettha pare mayaM yamAmase na ca vijAnanti tattha ye ca vijAnanti tato medhagA sammanti. //6//
「ここにいる我々は皆、死を免れない」とみんなは知らない。このことわりを知れば、争いはしずまる。
2回目は、愛着をもたないこと。まるで無縁社会を支持するような内容で、賛否両論が巻き起こった。
piyehi appiyehi kudAcanaM mA samAgaJchi piyAnaM adassanaM appiyAnaM dassanaM ca dukkham //210//
愛する人にも、嫌いな人にも、いつでも会ってはならない。愛する人に会えないのと、嫌いな人に会ってしまうのは苦しみである。
tasmA piyaM na karirAtha, hi piyApAyo pApako yesaM piyAppiyaM natthi tesaM ganthA na vijjanti //211//
だから愛する人を作るな。愛する人と別れるのは災いである。愛する人も嫌いな人もいない者たちには、しがらみがない。
piyato soko jAyatI piyato bhayaM jAyatI piyato vippamuttassa soko natthi bhayaM kuto //212//
愛する人から心配が起こり、愛する人から恐怖が起こる。愛する人のいない者には心配はない。恐怖もどうしてあろうか。
sIladassana sampannaM dhammaTThaM saccavAdinaM attano kamma kubbAnaM taM jano piyaM kurute //217//
節制と見識を備え、真理を確立し、真実を語り、自分の務めに励む者を、人々は愛する。
nipakaM saddhiM caraM sAdhuvihAriM dhIraM sahAyaM sace labheta sabbAni parissayAni abhibhuyya tena attamano satImA careyya //328//
聡明で、高潔で、思慮深い伴侶をもし得ることができたならば、一切の苦難を乗り越え、その者と共に喜び、心を配って生きよ。
nipakaM saddhiM caraM sAdhuvihAriM dhIraM sahAyaM ce no labheta vijitaM raTTHaM pahAya rAjA iva araJJe matAGgo nAgo iva eko care //329//
聡明で、高潔で、思慮深い伴侶をもし得ることができなかったならば、征服された国を捨てる王様のように、森の象マターンガのように、独りで歩め。
ekassa caritaM seyyo bAle sahAyatA natthi araJJe matAGgo nAgo iva appossukko eko care pApAni ca na kayirA //330//
独りで生きることは尊い。無知な者たちとつるんではならない。森の象マターンガのように、少欲にして、独りで歩め。そして悪いことをするな。
3回目は慈悲について。積極的に人を助けるという内容ではなく、危害を与えないという消極的なものだが、実践は難しい。
sabbe daNDassa tasanti sabbe maccuno bhAyanti attAnaM upamaM katvA na haneyya na ghAtaye //129//
みんな暴力を怖がり、みんな死を恐れる。自分自身と同様に考えて、ほかの者を殺してはならない。殺させてはいけない。
sabbe daNDassa tasanti sabbesaM jIvitaM piyaM attAnaM upamaM katvA na haneyya na ghAtaye //130//
みんな暴力を怖がり、みんな命を大事だと思っている。自分自身と同様に考えて、ほかの者を殺してはならない。殺させてはいけない。
yo attano sukhaM esAno sukha kAmAni bhUtAni daNDena vihiMsati so pecca sukhaM na labhate //131//
自身の幸せを求めるのに、幸せを望むほかの者たちを暴力で苦しめるならば、その者は来世に幸せを得られない。
yo attano sukhaM esAno sukha kAmAni bhUtAni daNDena na hiMsati so pecca sukhaM labhate //132//
自身の幸せを求め、また幸せを望むほかの者たちを暴力で苦しめないならば、その者は来世に幸せを得られる。
kaJci pharusaM mA avoca vuttA taM paTivadeyyuM hi sArambhakathA dukkhA paTidaNDA taM phuseyyuM //133//
誰に対しても、ひどい言葉を言うな。言えば、あなたにひどい言葉が返ってくるだろう。実に、言い争いは苦しみである。暴力があなたに返ってくるだろう。
sace upahato kaMso yathA attAnaM neresi eso nibbAnaM patto asi te sArambho na vijjati //134//
もしあなたが、こわれた鐘のように自身を鎮めるならば、永遠の安らぎに到達できる。あなたに言い争いはもう起こらない。
yathA gopAlo daNDena gAvo gocaraM pAceti evaM jarA ca maccU ca pAninaM AyuM paceti //135//
牛飼いが棒で牛を牧場に追い立てるように、老いと死が生きとし生けるものの命を追い立てる。
alaGkato api ce santo danto niyato brahmacArI samaM careyya sabbesu bhUtesu daNDaM nidhAya so brAhmaNo so samaNo sa bhikku //142//
どんな身なりであっても、穏やかで、慎み深く、自己を制御し、清く正しく、謙虚に振る舞い、生きとし生けるものに暴力をふるわなければ、その人こそ真の聖者であり、真の修行者であり、真の僧侶である。
毎回、参加者から感想をお伺いし、私自身益するところ大であった。また来期、別のお経で講座を開いてみたい。