曹洞宗でよく読まれている修証義の第一章に続いて、第5章も現代語に訳してみた。第1章は悪因苦果への言及が多く、決して気持ちよく読めるものではないが、第5章は感謝がテーマなのですっきりする。インド人しか悟れないとか、雀や亀が恩返しするとか、現代的にはあまり受け入れられそうにない話もあるが、そのあたりは素朴に読んでおきたい。
第1章と同じく、法事などで読んでもらうことを前提として、逐語訳にしたり注釈を加えたりせず、思い切って意訳してできるだけ短くしている。それでも原文と比べて文字数が3割くらい増えた。
第五章 行持報恩
菩提心を起こすということは、多くは天竺に住む人にしかできないことです。私達も縁あって、この人間世界に生を受け、お釈迦様の教えに出逢えたこと、何と嬉しいことでしょうか。
心静かに思い巡らしましょう。正しい教えが世に広まっていない時は、正しい教えのために身も心も捧げようと思っても叶いません。正しい教えに出逢えた今の私達を喜ぶべきなのです。実に、お釈迦様が仰るように、最高の悟りを教えて下さる師匠と出逢うには、生まれにも、顔や容貌にも、欠点にも、行状にもとらわれず、真実の智慧を大事にして、毎日朝昼晩に仏様を礼拝し敬い、煩悩の心を起こさないようにしなければなりません。
今、私達が仏教に出逢えたのは、お釈迦様とそのお弟子様たちが代々伝えてきた慈悲のおかげです。これがなかったら、どうして今日まで伝わることができたでしょうか。一句の言葉、一つの教えさえも感謝しなければなりません。ましてや仏教の多くの教えに対するご恩に感謝しないことがありましょうか。雀や亀ですら助けられた恩を忘れず、助けてくれた人を守り続けました。動物ですら恩を忘れません。人間がどうして恩義を知らずにいられるでしょうか。
その恩返しはほかでもなく、ただ毎日の生活しかありません。すなわち、一日一日の生命をおろそかにせず、自分だけのために使うまいと生きることです。
時が経つのは矢よりも速く、人の生命は草の葉の露よりもはかないものです。どんな手段で、過ぎ去った一日を取り返すことができるでしょうか。むなしく長生きしたところで、後悔ばかりの日々と、悲しむべき肉体しかありません。しかしそんな煩悩に支配された百年の間に、一日でも誠実に生きれば、百年の生涯だけでなく、来世の百年も救われるのです。この一日の生命は、かけがえのない大切な生命です。誠実に生きる生命を、自分自身でも敬いましょう。私達の生活によって仏様の生命が顕れ、仏様の大いなる道が通じます。したがって私達の一日一日の生活は仏様の種であり、仏様の生活そのものです。
仏様とはお釈迦様のことです。お釈迦様とは、私達の純粋な心です。過去現在未来の仏様は、皆お釈迦様となるのです。これが心こそ仏様ということです。誰の心が仏様なのか、よく考え生活していきましょう。こうして仏様のご恩に報いることができるのです。