映画『おくりびと』の元になったという本。富山県入善で、経営していた飲食店がつぶれ、夫婦喧嘩で妻が投げつけた新聞の求人欄から、葬儀社に勤めることになる。やがて納棺夫と呼ばれるようになり、死者と向き合う日々を綴る。
映画の元にどういう事実があったのかを知るのがまず面白い。映画で仕事を知った妻から「汚らわしい!」と言われたり、友人から「まともな職につけ」と言われるのは腑に落ちないものがあったが、原作では前にも浮気をしていて同じ台詞を言われたことがあったこと、友人ではなく家柄にこだわる叔父が元だったことを読んで納得できた。
それよりも興味深いのは、死者と真正面に向き合う中からつむぎ出される言葉である。死から目をそらして仕事をしている葬儀屋や僧侶、美しい死に際を邪魔する現代医学、生死の現場から離れた観念だけの宗教への痛烈な批判は耳が痛い。
その最大の要因は、『悟り』を説きながら悟りに至る努力もしない聖道門の僧職者たちや『信』を説きながら真に阿弥陀を信じようともしない浄土門の僧侶たちが、教条的に『信をとれ』といったりしているところに起因する。信もないのに、信をとれというのは、愛もないのに『愛しなさい』と言うに等しい。(p.202)
著者によれば、人は誰でも死ぬまでには〈ひかり〉に包まれ、涅槃(成仏成就)に入るという。ただ死ぬどれくらい前にそういう状態になるかは、釈尊のように45年になることもあれば、現代医学で「頑張れ頑張れ」と言われて直前までそうならないこともある。だがいずれにせよ最後には例外なく涅槃に入ることを、著者は多くの安らかな死に顔を見てきた経験から確信している。
まず生への執着がなくなり、死への恐怖もなくなり、安らかな清らかな気持ちになり、すべてを許す心になり、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれ出る状態となる。この光に出合うと、おのずからそうなるのである。(p.102)
生とは何か、死とは何かについて、今までにない見方を与えられて、読後もいろいろ考えさせられる。