よい死とはよい人生のこと

学校研究発表会で中学校の授業を見学。子どもたちがお世話になった先生方と久々にお会いできて懐かしく、事後研究会での先生方の活発な議論がとてもよかった。主体的な学びのための「問い」と「振り返り」、抽出生徒の見守りなどは講演などで使えそう。ただタブレットは操作に気を取られて頭に入っていないような場面が目立った(姿勢も悪い)。

中学1年生の道徳の授業は「よく生きること、よく死ぬこと」という重いテーマ。ホスピスで16歳で亡くなった方の話から、「よい死」について考えるという授業だった。自己の死は基本的に経験できないため(宗教、あるいは物語としてはありえるが)、「よい死」とは自己の場合、「(死ぬ前の)よい人生」ということになる。授業は「一日一日を大切に」とか「感謝の気持をもって」とか、「言うは易く行うは難し」な結論だったが、他者の死を通して「私にはこんな生き方ができるだろうか」と絶えずリアルに問うことがまず大切だと思う。

「アヌルッダたちよ、弟子が死去したとき、如来が『この者はこのところへ生まれる。この者はこのところへ生まれる』と、再生する場所を予言するのは、人を欺くためでなく、人に吹聴するためでなく、利益や尊敬や名誉や功徳のためでなく、『私はこのような超能力があることを人は知れ』というためではない。信をもち、広大な信仰をもち、広大な喜悦をもつ良家の子はそれを聞いて真理に心を馳せる。彼らにとってそれは長いあいだ利益をもたらし安楽をもたらす」(『娑鶏帝三族姓子経』)

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