『傘松』1月号に宮川敬之師による『正法眼蔵』「三時業」の講義録。『修証義』に引用された「造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る」が、宗教的な文脈での善悪を一般的社会道徳にすり替えられ、差別事象を助長することになったという批判をどのように受け止めるかという問題について考察されている。
- 順現報受(行いの結果をこの世のうちに受ける):自未得度先度他(修行した功徳を自分のためではなく他のために廻らし向ける)
- 順次生受(行いの結果を次の来世で受ける):帰依三宝(仏法僧を信仰することで救われる)
- 順後次受(行いの結果をそれ以降の来世で受ける):恒修善行(菩薩行の果報を個々の生で受けなくても常に行う)
一方、悪業は「そのような修行を行わず、吾我に塗れたまま生きていくこと」とし、悪果は「吾我に塗れた、自己中心的な欲望に生きて苦しみを助長する」と捉えられている。
現在の苦しみの原因については判断を保留し、吾我のあやふやさを認め、坐禅を行じていくという積極的な姿勢によって「深信因果」「三時業」は差別を離れ、修行の実践に結びついていく。この解釈だと、諸悪莫作・衆善奉行を自分が心がけるだけでなく、他人に勧めることもできるだろう。
帰依三宝で思い出したのが、次女が幼い頃、私の真似をして本堂の座褥で五体投地のお拝をしたこと。座褥によだれが付いていたのが印象深くて今でも覚えているが、この善業はよい果報をもたらす(すでにもたらしている?)のかもしれない。誰であっても、仏様に合掌することは善業であり、本堂や仏壇で仏様にお参りしてもらうことが住職の仕事というのも理解できるような気がする。