「禅をきく会」で恐山院代・南直哉師のお話「生死の流儀」を拝聴。「でしょう?」「ね?」と明るい口調ながら、死んだらああなるこうなるを「ストーリー」として一蹴し(「千の風になんかなるわけないでしょ?」とか)、徹底的な現世主義で死を見つめる。
自分の「死」は、死んだときにはもう自分はいないのでわからないものとし、不特定の「死体」、関係性のある「遺体」、死後も(幽霊とかではなく)時に強烈にリアルなあり方で存在し続ける「死者」に分け、弔いを遺族にとっての「死の確定」(時間がかかる)と捉えていく。結局、死の観念は死者を自分の中にコピーした結果得られる「生にかかる重力」であり、命が尽きたとき、生と共に終わるものという結論だった。「生死の中に仏なければ生死にまどはず(正法眼蔵生死)」ということだろうか。
共通の問題に対し、ほめられようとせず、友達を作ろうとも思わずに損得抜きで取り組むこと。そうすれば死は「やり終えた後の休息」になるという。住職はともかく、寺役員さんにそういう人が少なくないのは、お寺って自然とそういう気持ちになる場所なんだろうなと思う。最近は同年代が亡くなる話を耳にすることが増え、頭に火が付き始めている中、周囲に流されず自分がすべきことを見つめ直すいい機会となった。
