『マチズモを削り取れ』

著・武田砂鉄、集英社(2021年)
タイトルの「マチズモ(machismo)」とはスペイン語で、仕事や家庭での男性優位主義(マッチョイズム)を指す。人混みで歩くとき、電車での痴漢、書店での男性作家/女性作家、便座が上がる新幹線のトイレ、引っ越しの内見、結婚披露宴の次第、女性が相槌係の会話、運動部の女子マネージャー、女性選手の性的対象化、高級寿司屋の雰囲気、バーのカウンター、就活の服装……「そういうことになっているから、そういうことにしておけ」というマチズモに対し、どんな些細に思われることにも「考えすぎてみよう」という本。

「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」は規模を拡大している。(中略)会の行動宣言を発表してから「約3年半が経過し、行動宣言賛同者は150名を超えました」とのこと。それに続くのが「この間、社会における女性活躍の機運は、着実に高まってまいりました。女性の就業者数は増え、意思決定ポジションに就く女性の数も少しずつではありますが増加しています」であるというのは痛烈な皮肉である。賛同者はしっかりと規模を拡大する一方、意思決定ポジションに就く女性は少しずつ増加しているのみなのだ。「男性が女性を『教化』しようとする姿勢」に賛同者が集まっている。(80ページ)

世の中はジェンダー平等が正義になっており、タリバンでもない限り、この理念に異議を唱えるものはいない。しかしアピールだけで世の中は変わらない。変わるためには安全なところから叫んでいるだけではなく、身を切るような利害関係まで踏み込んだものにならざるを得ない。平等というのは、男性がこれまでに履いていた(履かされていた?)下駄を自ら脱ぐところから始まる。

補助的業務(女子マネージャー)に従事するという彼女の判断を否定することはできないし、その必要もない。そのポジションにおさまることを咎めるのではなく、そのポジションが微動だにせず、「女性が身の回りのケアをして当たり前」になっていることに違和感を持ちたい。(191ページ)

女子マネージャーに限らず、女性が自身の美学に基づいて「女性らしい」振る舞いをするのと、男性がそれを当たり前と受け止めるのとでは全然違う話である。もしかしたら本人の意図に反して女性らしい振る舞いを無言のうちに強制してはいないだろうか。「それをするのはあなたの自由ですが、こちらは当たり前だなんて思ってませんから、無理にしなくてもいいんですよ」という態度は、仕事でも家庭でも心がけておきたい。

男たちの群れに、男はすぐ入れる。理由はなぜか。男だから。通行証があらかじめ発行されている。男たちの群れに女が入るためには、男に承認されなければならない。講習を受けなければ通行証が発行されない。悪しきこの仕組みがようやく崩れ始めているが、その速度を何とかして遅くしようと試みたり、壊そうとする行為に「逆差別ですよ」なんて言い始めたりする。(283ページ)

重くなりがちなテーマではあるが、痛快な切り口にどんどん先を読みたくなり、読み終わる頃には日常のあちこちにマチズモが潜んでいることに気付かされる。岸田首相が総裁選のときに「全員野球」「ノーサイド」と言ったことにも反応するくらい(野球もラグビーも、圧倒的に男性が多いスポーツである)。選択的夫婦別姓への反対も、家族の絆とかよりも、ほとんど姓を変えなくてよい男性が「そういうことになっているから、そういうことにしておけ」と思っているのではないか。

これだけやってきたのに、変わらないのだ。でも、変わらないな、という憤りを保たなければ、マジで変わらない。マチズモを削り取るための有効な方法はないし、すぐに改善はできないけれど、このまま続けていくしかない。体系的にではなく、ひとつひとつ、目の前のことに突っ込んでいくしかない。(302ページ)

「男性だって大変だ」とか「何か事情があるんだろう」とか言って女性差別を容認してしまうのは、論点のすり替えである。それはそれで問題であっても、今起こっている問題とは別であることを冷静に指摘して突っ込むこと。それは決して喧嘩を売っているのではなく、平等な人間関係の心地よさにたどり着くための「気付き」を増やしていくことだと思う。

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