仏遺教経(現代語訳)

毎年地元の公民館で行われている写経教室。写経の前に1時間ほどお経の話をして、心を落ち着かせてから写経を始めてもらっている。般若心経、法句経、修証義ときて、4年目の今年は仏遺教経を解説することにした。お釈迦様が亡くなる直前の教えを収めたお経だとあれる。2月15日はお釈迦様のご命日なので、時期的にもちょうどよい(2月15日は旧暦で、しかもインドは温かいので、雪に閉ざされた東北の2月とは相当隔たりがあるが)。

解説にあたっては、予め現代語訳したお経を配り、音読しながら適宜注釈していった。また解説の前後に『大聖釈迦如来涅槃御和讃』を毎回お唱えし、お寺から持ってきた涅槃図を正面に掲げた。お釈迦様がお亡くなりになった場面に直接立ち会ったかのような雰囲気が漂う。

お釈迦様は臨終に際して最後に「八大人覚」という8つの教えを説かれ、道元禅師も正法眼藏で取り上げているが、同じお釈迦様の最期を描いた『涅槃経』にはそのような形でまとめられていない。『涅槃経』では「衰亡を来たさないための七つの法」が5つと、「衰亡を来たさないための六つの法」が1つ示されており、この合計7×5+6=41の教えの中に、八大人覚に通じるものはいくつか存在する。私なりに対応付けしてみたが、その分布はバラバラだった。八大人覚は『涅槃経』ではなく、ほかの経典に基づいているのだろう。

少欲:あらゆる欲情から離れる思いを修す(5-6)
知足:よく喜びに満ち足りる(4-4)
遠離:林間の住処に住むのを好む(1-7)
精進:よく努力する(4-3)
不忘念:心の念いが安定(3-6)
禅定:心の平静安定(4-6)
智慧:智慧(3-7)
不戯論:談話を喜ばず、談話を楽しまず、好んで談話に耽らない(2-2)→パーリ語の八大人覚と不戯論
(括弧内の数字は何番目の七(六)つの法かと、そのうちの何番目かを表す)

修行時代、涅槃会の逮夜が毎晩行われていたが、舎利礼文を読んでいると無性に泣けてきたのを思い出す。今回も、お経の最後の文句「これが私の最後の説法である」を読む頃にはうるっときた。お釈迦様は「悲しむな」といい、修行を完成すれば悲しまなくなると説かれるが、亡くなった人たちの顔を思い浮かべて涙ぐんでいる私は、まだまだ未熟なままでいたいようだ。


お釈迦様がお亡くなりになるときに最後に遺された教えのお経

お釈迦様は最初の弟子アンニャ・コーンダンニャから最後の弟子スバッダまで、数多くの説法を行い弟子にしてきた。弟子にできるものはみんな弟子にして、二本並んだサーラ樹の間に横になり、臨終を迎えていた。ときは夜中で周囲は静まり返っていた。お釈迦様は集まった弟子たちのために最後の説法を行った。

弟子たちよ、知っておいたほうがよい。欲張りな人は利益を多く求めようとして、悩みもまた多くなる。欲が少ない人は欲しいものもないのでこのような悩みがない。だから少欲ということを学びなさい。少欲が多くの功徳を生むのはいうまでもない。欲が少ない人は他人に媚びへつらって気を引こうとすることもないし、感情に流されることもない。欲が少ない人は心が平穏で恐れるものもない。何事にもゆとりがあり、足りないということは常にない。少欲の人には安楽がある。これを「少欲」と名付ける。

弟子たちよ、もし悩みをなくそうとするならば、知足を学びなさい。知足とは豊かで安穏なものである。足ることを知る人は、地面で寝るような暮らしを送っていても安楽である。足ることを知らない人は、豪邸で暮らしていても満足しない。足ることを知らない人は、裕福であっても心が貧しい。足ることを知る人は、貧しくても心が豊かである。足ることを知らない人は、いつも欲望に流されて、足ることを知る人から哀れまれる。これを「知足」と名づける。

弟子たちよ、穏やかで恐れるもののない安楽を求めるならば、喧噪の地を離れて閑静な地で独り暮らすがよい。閑静なところに住む人は、帝釈天や神々が篤く敬う。だから周囲の人とのしがらみを捨て、閑静な地で独り暮らし、悩み苦しみの原因を断つべきである。人々とのつきあいが好きな人は、その分さまざまな事柄に悩まされる。大樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする恐れがある。世間に束縛されると悩みから逃れられない。老いた象が泥沼にはまっておぼれ、自分で脱出できなくなるようなものだ。これを「遠離」と名づける。

弟子たちよ、もし努力を怠らないならば、何事も成就できないことはない。だからお前たちは、努力を惜しんではならない。少量の水であっても常に流れ続ければ、石に穴を開ける。修行者の心が度々なまけるのは、火を起こそうとしているのに熱くなる前に止めると、火を起こせないようなものである。これを「精進」と名づける。

弟子たちよ、師匠や仲間を探すよりも、自身の信念を忘れないに越したことはない。信念を忘れなければ、いろいろな煩悩が盗賊のように心に侵入することはできない。だからお前たちよ、いつも信念を心に持ち続けなさい。信念をなくしたら、さまざまな功徳を失ってしまうだろう。逆に信念が強ければ、欲望が盗賊のように心の中に侵入したとしても、それによって惑わされることはない。鎧を着て戦場に入れば、恐れるものがないようなものである。これを「不忘念」と名づける。

弟子たちよ、心をよく制御する人は、坐禅をして心を静めている。心が静まれば、世間の無常で移り変わる有様を知ることができる。だからお前たちよ、いつも努力して坐禅を学びなさい。いつも坐禅を行なっていれば、心が乱れることはない。それは水を大事に使う家が、堤防を作るようなものである。修行する人も同じで、智慧という水のために正しく坐禅をして、智慧という水を漏らさないようにするのである。これを「禅定」と名付ける。

弟子たちよ、智慧があれば欲や執着もない。いつも自分自身を省みて過失のないようにしなさい。そうすれば、私の教えの中で悟りを開くことができるだろう。そうしない人はもう修行者ではない。かといって在家信者でもない。中途半端で名づけようがない人である。真実の智慧とは、老・病・死の海を渡る丈夫な舟である。あるいは無明という暗闇を照らす大いなる灯明である。すべての病の苦しみを治す良薬である。煩悩の樹を切り倒す鋭利な斧である。だからお前たちよ、智慧の話を聞き、智慧への思いを巡らし、智慧を実践することで、自ら功徳を積みなさい。智慧の輝きがあるならば、神通力がなくても、真理を明らかに見ることができる人になれる。これを「智慧」と名付ける。

弟子たちよ、無意味な議論をすると、心が乱れるものである。心が乱れれば修行していても悟りを開くことはできない。だから弟子たちよ、心を乱す無意味な議論は即刻やめなさい。お前たちが心の平安を得ようと思うならば、無意味な議論の過ちをなくしなさい。これを「不戯論」と名づける。

弟子たちよ、数々の功徳の中でも、いつも一心に怠け心を、敵のようにして完全に捨て去るよう努めなさい。私が教えようとしたことは、全て説き尽くした。お前たちはただこれを実践するだけである。山間、沢、樹の下、森林、静かな部屋のどこにいても、授けられた教えを心に留め、忘れないようにしなさい。いつも自ら努力して実践し続けなさい。何もなさないまま、虚しく過ごして死んでしまえば後悔することになるだろう。私は、良医のように病をよく知って薬を処方したのである。薬を飲むか飲まないかは医者の責任ではない。あるいは、道案内のように、順路を示したのである。これを聞いて進まないのは、先導者の過失ではない。

弟子たちよ、苦しみと、その原因と、原因をなくすことと、そのための修行という四つの真理について疑問があったら、今すぐ質問しなさい。疑問を残して答えを出さないのはいけない。お釈迦様はこのように三度問いかけられたが、誰も質問する者はいなかった。弟子たちにはもう疑問がなかったからである。その時、アヌルッダが、弟子たちの心を察してお釈迦様に申し上げた。

お釈迦様、たとえ月が熱くなり、太陽が冷たくなったとしても、お釈迦様がお説きになった四つの真理は決して変わりません。お釈迦様がお説きになった苦しみの真実は本当に苦しみです。安楽に変わることはありえません。原因の真実は、まさに苦しみの原因であって、ほかに別の原因はありません。苦しみがなくなれば、原因がなくなるのですから、結果もなくなります。苦しみをなくす修行こそ、真の修行です。ほかの修行はありえません。

お釈迦様、ここにいる弟子たちは、四つの真理について理解しており疑問はありません。まだ修行を完成していないものは、お釈迦様が亡くなると大いに悲しむでしょう。修行を始めたばかりでも、お釈迦様の説法を聞けばたちまち救われるからです。それは真夜中に、稲妻で照らされて道が分かるようなものです。一方、修行を完成し、苦しみの海を渡った者も、お釈迦様が亡くなれば「お釈迦様が亡くなるのは、何と早いことだろう」と思うことでしょう。

アヌルッダはこのように語り、弟子たちは皆、四つの真理を理解していたが、お釈迦様は、大勢の修行者の修行が堅固であるように、慈悲の心で再びお説きになった。

弟子たちよ、悲しんではならない。私がたとえ何万年と生きようとも、生まれたものは必ず滅びるのである。生まれたのに滅びないということは決してない。自分も他人も幸せになる方法は、皆が理解した。私がこれ以上生きていても、もう説くことはない。救うべき者は、神でも人でも全て救うことができた。まだ救っていない者にも、いずれ救われるように教えを遺した。今後、弟子たちが、教えを伝えて実践していけば、私は教えとして生き続け、死ぬことはない。だから知るべきである。世界は、すべて無常であって、出会いがあれば必ず別れがくる。悲しんではならない。世界の真実がそうなのだ。お前たちも努力して早く悟りを開き、智慧の明かりによって無知の闇を照らしなさい。

世界は、実に危うくもろく、常住なものなど存在しない。私が今死ぬということは、悪い病から解放されるようなものである。これこそ、捨て去るべき最悪のものである。それはいわゆる「身体」というもので、生・老・病・死の海に沈んでいる。どうして智慧ある者が、敵のように捨てるべき身体をなくして、喜ばないでいられるだろうか。

弟子たちよ、いつも一心に仏道を求めなさい。世間のあらゆるものは、いずれ壊れてなくなってしまうのだ。弟子たちよ、しばらく静かにして、話をしてはならない。時はまさに過ぎ去っていく。私の最期がやってきた。これが私の最後の説法である。

2件のコメント

  1. つい数日前、母親が急逝しました。
    枕経と通夜にて、菩提寺住職より「仏遺教経」を上げて頂きました。

    「敵のように捨てるべき身体をなくして、喜ばないでいられるだろうか。」

    火葬後、収骨の際、まさに「もう腰や膝の慢性的な痛み、また難病である強皮症に苦しまなくていいんだ」と、苦しみの源であった「身体」から解放されたことに一筋の安堵の念を抱きました。

    子である私も、もう二十数年来、病に苦しめられ、根治的な治療法もないまま、最近では日常生活にも支障をきたし、母の死後の法要すらままならない状態になってしまっており、あまりにも情けなく、この「身体」を捨ててしまいたいという思いが絶えません。

    命あるものの一切が「生まれたのに滅びないということは決してない」のであれば、いまの私が、自らの意志で、自らの行いによって、病に冒された我が「身体」を捨て去る行為に及んでも、それは尊重されてしかるべきではないのかと、より一層その思いを強く抱いています。

    すべての苦の根源であるこの「身体」から、もう解放されい。

    • お釈迦様の弟子には重病や修行の理由から自死を選んだ人もおりますが(https://tgiw.info/weblog/2018/08/umarekawari-ima.html)、苦しみの根本的な原因は身体ではなく無明(煩悩)であること、そして無明を滅する修行をしないままでは、肉体が滅んでも生まれ変わってまた同じことを繰り返してしまいます。無明を滅する修行は、人間として生きている間しかできず、つまりこの苦難に満ちた人生から逃げないでいかに生ききれるかにかかっています。病の苦しみは想像するに余りありますが、どうか生きるほうを選んでいただきたいと思います。

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