パーリ語の八大人覚と不戯論

南直哉師の布教師養成所講義録(H31)に「少欲知足」の解説があり、長部経典と増支部経典に典拠があるというので調べてみた(どのお経か書いていないのは、自分で調べましょうということだと解釈)。

「少欲知足」は曹洞宗でよく読まれる『仏遺教経』で八大人覚の最初に挙げられ、道元禅師も『正法眼蔵』で取り上げているが、「今は千比丘の中に、一両個の八大人覚知れる者なし」と書かれたように、四諦・十二支因縁・八正道などと比べると圧倒的にマイナーで、掲載されているお経がほとんどない。お釈迦様の最期が記された『涅槃経』にもなく、『仏遺教経』の創作だと思っていた。

あらためて大蔵経データベースで「少欲」「八大人覚」を検索すると阿含経がいくつか出てくるが、対応するパーリ語ニカーヤがなかなか見つけられず難航。總持寺の月刊誌『跳龍』で矢島先生が「少欲知足」について連載していたなと思って見返してみると、そこに触れぬまま4回で連載終了(その後の連載が私に回ってきた)。仏教辞典にもインド学仏教学論文データベースにも出典が見つからず。曹洞宗にとっては重要な教えなのになぜ?

そんな中、辛島先生の論文から『ダスッタラ・スッタ(長阿含十報法経に対応、ディーガニカーヤ34)』の該当箇所を見つけ、原文から検索して『アヌルッダ・マハーヴィタッカ・スッタ(阿那律八念経に対応、アングッタラニカーヤ8-30)』も見つけた。どうやらこれが、南師が紹介したお経のようだ。

漢訳ではもっと多くの経典が見つかった(『長阿含経巻第九』、『増一阿含経巻第三十七』、『優婆夷淨行法門経』、『佛説八大人覺経』、『菩薩瓔珞本業経』、『十住毘婆沙論』、『成実論』)。経典によって少しずつ異同があるが、「少欲」「知足」「精進」は漏れなく入っている。

八大人覚/八大人念(अट्ठ महापुरिसवितक्क/アッタ・マハープリサヴィタッカ、8つの偉大なる人間探究)
①少欲(अप्पिच्छ/アピッチャ、欲が少ない)
②知足(सन्तुट्ठ/サントゥッタ、満足している)
③楽寂静(पविवित्त/パヴィヴィッタ、人里離れている)遠離、閑静、閑居、隠処
④勤精進(आरद्धवीरिय/アーラッダヴィーリヤ、努力を行う)
⑤不忘念(उपट्ठितसति/ウパッティタサティ、集中したままである)専念、自守、受行、守意、持戒、制心、念寃親、正念、正憶念
⑥修禅定(समाहित/サマーヒタ、心を定めている)定意、定、観察、正定、念定、心摂
⑦修智慧(पञ्ञवतो/パンニャヴァトー、智慧を有する)多聞、正慧、慧樂、得慧
⑧不戯論(निप्पपञ्च/ニッパパンチャ、差別がない)無礙、発大乗心、不諍論、戲論滅

以前から、⑧不戯論だけ異質に感じていたが、『アヌルッダ・マハーヴィタッカ・スッタ』では、7つ目までアヌルッダが考え、お釈迦様が8つ目を付け加えたものとされており、ここは究極の教えでなければいけない。「無意味な議論をしない/修行の役に立たないおしゃべりをしない」では弱いように思う。

原語の「パパンチャ」、サンスクリット語で「プラパンチャ」が「戯論」だが、これは『中論』などで、分別や言葉による世界の分節化(言分け)を意味する。こちらの意味で取れば、不戯論は「世界を分別せず、真実の世界を直観すること」ということになる。『優婆夷淨行法門経』の「無礙」という訳語がこれをよく表しており、『正法眼蔵』の「証離分別」「究尽実相」という説明もこれで通る。般若心経の「心無罣礙」のように、ここまでいけば涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)は目前。お釈迦様が付け加えたのであればこれくらい究極のものであるべきではないだろうか。

『成実論』では、少欲ができれば知足ができ、知足ができれば遠離ができ……というように修行の階梯と捉えている。欲をコントロールすればシンプルなもので満足でき、そうすれば人里離れて住めるようになり、自分の修行に打ち込み、集中力を切らさず、心が落ち着き、仏の智慧が起こり、世界を平等なものと見られるようになる。実践はともかくとして(汗)、これでだいぶ腑に落ちた。

このお経をもとに、今風に解釈してみるとこんな感じだろうか。
①少欲:承認欲求を抑える
②知足:他人と比べない
③遠離:自分の時間をもつ
④精進:一日一善
⑤正念:大事なことを忘れない
⑥禅定:静かに坐る
⑦智慧:悩みの原因に気づく
⑧不戯論:人や物を平等に見る

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