お檀家さんで自分よりずっと若い方が急逝。生きているのが当たり前で死ぬのが特別なことではなく、死ぬのが当たり前で生きているのが特別なことだということを、『清浄道論』を読んで確認した。
死の八随想
(1) 人殺しの出現(वधकपच्चुपट्ठान):人は生まれたときからいつも死に狙われている
(2) 成功の消滅(संपत्तिविपत्ति):繁栄も健康も若さもやがて消え去る
(3) 比較(उपसंहरण):悟りを開いたお釈迦様でさえ死は免れない
(4) 身体を多くのものと共有すること(कायबहुसाधारण):体内細菌や獣や虫の害によって身体は滅びる
(5) 生命の弱さ(आयुदुब्बल):呼吸や栄養摂取ができないと人はすぐ死ぬ
(6) 定めのないこと(अनिमित्त):いつ、どこで、何で死ぬかわからない
(7) 有限なもの(अद्धानपरिच्चेद):数分でも生きていられるか確実ではない
(8) 瞬間の短さ(खणपरित्त):長い過去・未来と比べれば人の命はほんの一瞬である
しかし、そこまでに至らない者は、死を八つの方法で想うべきである。すなわち、(1) 人殺しの出現として、(2) 成功の消滅として、(3) 比較として、(4) 身体を多くのものと共有するものとして、(5) 生命の弱さとして、(6) 定めのないものとして、(7) 範囲の有限性として、(8) 瞬間の短さとして。
(1) ここでは、人殺しの出現として次のように想うべきである。「人殺しが剣を持って現れ、「この男の首をはねよう」と思って首に当てるように、死も現れる。」なぜか。それは誕生とともに訪れ、命を奪うからである。
芽吹く毒キノコが常に頭の上で胞子を上げて出てくるように、生き物は老いと死とともに生まれる。したがって、再生に繋がる意識は、発生直後に老化し、岩の頂上から落ちる石のように、付随する要素とともに崩壊する。まず、一時的な死は誕生に伴って訪れる。しかし、生まれたものにとって死は避けられない。したがって、ここで意図されているような死もまた、誕生に伴って訪れるのである。
それゆえ、昇った太陽が沈む方向へ進み、辿り着いた場所から一瞬たりとも引き返すことがないように、あるいは山の急流が激しい流れをなして吹き荒れ、絶えず流れ続け、一瞬たりとも引き返すことがないように、この生命体も誕生した瞬間から死へと向かって進み、一瞬たりとも引き返すことはない。それゆえ、「人は胎内に宿ったその日から、ただ進み続けざるを得ず、一度も引き返すことはできない」と言われている。
こうして彼が歩み続ける限り、死は彼にとって身近なものである。夏の暑さの中で小川が干上がるのと同じように、朝になって樹液が根元に届くと木の実が落ちるのと同じように、木槌で叩かれた土鍋が壊れるのと同じように、太陽の光を浴びた露が消えるのと同じように。だからこそこう言われている。「夜も昼も過ぎ去り、命は着実に減っていく。人間の寿命は、枯れゆく小川の水たまりのように、尽き果てるまでだ」。「果実が熟すと、朝には落ちてしまうのではないかという恐怖があるように、人間は生まれたときから、死ぬのではないかという恐怖を常に抱いている。陶工の手によって一度形作られた土鍋の運命が、小さくても大きくても、焼いても生でも、壊れてしまう運命にあるように、人間の人生は死へと導くのだ」。「草の葉の上の露は、太陽が昇ると消える。それが人間の寿命だ。だから、母よ、私を邪魔しないでくれ」。
だから、誕生とともにやってくるこの死は、剣を構えた殺人者のようなものである。首に剣を突きつける殺人者のように、死は命を奪い去り、二度と戻ってはこれない。だからこそ、誕生とともにやって来て命を奪うので、剣を構えた殺人者のように見える死は、「殺人者の姿をしている」と想起されるべきなのである。
(2) 成功の消滅として:ここでは、失敗が上回らない限り、成功は輝く。そして、失敗の届かないところに存続する成功は存在しない。それゆえ、「彼は喜びのうちに一億を与えた。全土を征服した後、ついに彼の領土は半玉の半分にも満たないほどにまで減少した。しかし、彼の功徳が尽き、彼の体が最後の息を引き取ったとき、悲しみを知らないアショーカ王もまた、死を目の前に悲しみを感じた。」
さらに、すべての健康は病に終わり、すべての若さは老いに終わり、すべての生は死に終わる。すべての世俗的な存在は、誕生によってもたらされ、老いに悩まされ、病に襲われ、死に打ち倒される。それゆえ、こう言われている。「まるで天に届くほど巨大な岩山が四方八方から押し寄せ、すべての生き物を踏み潰すかのように、老いと死が戦士、僧侶、商人、職人、追放者、腐肉食者など、あらゆる生き物を踏み潰し、誰一人容赦なく滅ぼす。象の軍勢も、戦車兵も、歩兵も、呪文のような戦略も、富も、彼らを撃退することはできない。」。死は人生の成功を最終的に破滅させる死として定義され、このように「成功の消滅」として回想されるべきである。
(3) 比較によって:自分を他人と比較すること。ここで死を七つの比較によって思い起こすべきである。すなわち、名声の高い者、功徳の高い者、力の強い者、神通力の高い者、悟りを開いた仏陀、全知全能の仏陀である。どのように?
マハーサンマタ、マンダートゥ、マハースーダッサナ、ダーハネミ、ニミなどは大いなる名声を博し、多くの信者を持ち、莫大な富を蓄えたが、死はついに彼らにも追いついた。だから、私にもついに死が追いつかないはずがない。マハーサンマタのような偉大な王たちは、名声によって死に追いつかれたのである。力強く広がり、すべても死の力に屈した。私のような者については何が言えるだろうか。それはまず第一に、大名声のある者との比較によって思い起こされるべきである。
功績の大きい者との比較ではどうだろうか。 ジョーティカ、ジャシラ、ウッガ、メオダカ、プオアカなどは、最も功績のある人生を送ったと世間で言われた。 それでも彼らはみな死に至った。私のような者については何が言えるだろうか。それは大名声のある者との比較によってこのように思い起こされるべきである。
力の強い者との比較ではどうだろうか。 ヴァースデーヴァ、バラデーヴァ、ビーマセーナ、ユッディシュシラ、レスラーのチャーウラは、 圧倒する力があった。 彼らは世界中で非常に強い力に恵まれていると名高かった。 彼らも死の領域に行った。私のような者については何が言えるだろうか。偉大な力を持つ者と比べて、このように想起されるべきである。
偉大な神通力を持つ者と比べるとどうであろうか。第二の高弟は、霊験あらたかな第一人者であり、足の親指の先でヴェージャヤンタの宮殿の塔を揺さぶった。獅子の顎の中の鹿のように、彼もまた、霊験あらたかな力にもかかわらず、死の恐ろしい顎に落ちた。私のような者については、何と言えようか。偉大な神通力を持つ者と比べて、このように想起されるべきである。
偉大な理解力を持つ者と比べるとどうであろうか。二人の高弟のうちの第一の高弟は、智慧の術に非常に優れていたので、世間の教主を除いて、彼の十六分の一に値する者はいない。しかし舎利弗の理解力はそれほど優れていたが、彼も死の力に落ちた。私のような者については、何と言えようか。偉大な理解力を持つ者と比べて、このように想起されるべきである。
一万の仏と比べてどうであろうか。自らの知識と力で敵の煩悩をすべて打ち破り、悟りを開いた者たちでさえ、犀の角のように自ら完成していたとしても、死からは自由ではなかった。それでは、私がどうやって死から自由になれようか。彼らが真理を探し求めるのを助けるために、聖者たちはさまざまな印を用い、彼らの知識によって自ら完成し、彼らの癌はついに滅した。犀の角のように彼らはいつも孤独に生きていたが、どうやっても死を避けることはできなかった。私のような者たちについては何が言えるだろうか。一万の仏と比べてこのように思い起こすべきである。
完全に悟りを開いた仏陀と比べてどうであろうか。その物質的な身体は八十のより小さな細部で飾られ、偉人の三十二の特徴で飾られ、その法身は徳の蘊蓄などの貴重な性質を完成し、あらゆる面で清浄であり、名声の大いなるもの、大いなる神通力を超越し、並ぶ者なく、倍するものなく、完成し完全に悟りを開いた彼でさえ、大量の火が豪雨によって消えるように、死の豪雨によって突然消え去った。これは完全なる悟りを開いた仏たちとの比較によって、このように思い起こされるべきであるこのように、最も偉大な聖者はあらゆる点でそのような強大な力を備えていたが、死が彼を支配したのは、恐怖や罪悪感によるものではなかった。罪悪感や小心さのない者でさえ、打ち倒されるのに、私のような者を打倒さないはずがあろうか?
このように、死の普遍性という観点から、自らをそのような偉大な名声を持つ者らと比較し、「あの高貴な者たちと同じように、死は私にも訪れるであろう」と考えるとき、その瞑想対象は入定に至る。これが比較による死の随念の正しい在り方である。
(4) 身体を多くのものと共有するものとして:この身体は多くのものによって共有されている。まず、八十種の虫によって共有されている。そこでも生き物は外皮に依存して生き、外皮を食べる。生き物は内皮に依存して生き、内皮を食べる。生き物は肉に依存して生き、肉を食べる。生き物は筋に依存して生き、筋を食べる。生き物は骨に依存して生き、骨を食べる。生き物は骨髄に依存して生き、骨髄を餌とする。そしてそこで生まれ、老いて死に、排泄し、水分を生成する。そして肉体は彼らの産院であり、病院であり、納骨所であり、便所であり、便器である。肉体はこれらの蠕虫の刺激によっても死に至る。そして肉体が八十種もの蠕虫科に共通しているように、数百もの内臓疾患や、蛇やサソリなどの外因による死も肉体に共通している。
また、十字路に的が立てられ、四方八方から矢や槍、鉾、石などが飛んできて的を射抜くように、あらゆる災いが身体に降りかかり、これらの災いによって身体は死に至るのである。ゆえに世尊はこう説かれた。「比丘たちよ、昼が過ぎ去り夜が迫るとき、比丘はこう考える。『私は様々な方法で死の危険に晒される。蛇に噛まれるかもしれない、サソリに刺されるかもしれない、ムカデに刺されるかもしれない。それで死んでしまうかもしれない。それは私にとって後退となる。あるいは、つまずいて倒れるかもしれない。あるいは、食べた食物が体に合わないかもしれない。あるいは、胆汁が乱れるかもしれない。あるいは、痰が乱れるかもしれない。まるで刃物が関節を切り裂くように。それによって死ぬかもしれない。それは私を後退させるだろう」。このように、身体を多くのものと共有していることに関して、死を思い起こすべきである。
(5) 生命の弱さについて:この生は無力で脆弱である。生き物の生命は呼吸と結びついており、姿勢と結びついており、寒熱と結びついており、基本元素と結びついており、栄養と結びついている。
吸う息と吐く息が均等に行われるときにのみ、生命が発生する。しかし、鼻孔から出た風が再び入らない場合、または入ったものが再び出ない場合、その人は死んだものとみなされる。また、生命は4つの姿勢が均等に発生することが確認された場合にのみ発生する。しかし、そのうちの1つでも優勢になると、生命の過程は中断される。また、寒さと熱さが均等に発生することが確認された場合にのみ、生命が発生する。しかし、人が極度の寒さや暑さに圧倒されると、生命は発生しない。また、それは4つの基本元素が均等に発生することが確認された場合にのみ発生する。しかし、土の要素が乱れると、たとえ強い人でも体が硬直したり、水をはじめとする要素のひとつが乱れて腸からの逆流などで体が軟弱になり石化したり、高熱にうなされたり、手足の関節が切断されたりすると、命が終わることがある。そして、適切な時に肉体的な栄養を得た人にのみ生命が宿る。しかし、栄養がなければ、命を使い果たしてしまう。死は、生命の弱さについて、このように思い起こされるべきである。
(6) 定めのないものとして:それは定めのないもの。意味は予測できないということである。すべての生き物の場合、寿命、病気、そして時、そして遺体が安置される場所、運命。生きている世界はこれらのことを知ることは決してできない。それらがいつ起こるかを予言する兆候はない。
ここでは、まず、期間には兆候がない。なぜなら、「これだけ生きなければならない、それ以上は生きてはいけない」というような定めがないからである。生き物は、胎児のさまざまな段階で、つまり、カララ、アブダ、ペシ、ガーナの時、一ヶ月過ぎた時、二ヶ月過ぎた時、三ヶ月過ぎた時、四ヶ月過ぎた時、五ヶ月過ぎた時…十ヶ月過ぎた時、そして子宮から出てきた時に死にます。そしてその後、今世紀か来世紀のうちに死ぬ。
また、病気にも兆候がない。なぜなら、「生き物はこの病気だけで死に、他の病気では死なない」というような定めがないからである。生き物は目の病気、または耳の病気から始まる病気のいずれかで死ぬ。
また、時間にも兆候がない。なぜなら、「人はこの時間にだけ死ななければならない、他の時間に死なない」というような定めがないからである。生き物は朝にも、正午にも死ぬからである。
死体が埋葬される場所にも兆候がない。なぜなら、「人は死ぬとき、必ずここに死体を埋葬しなければならない。他のどこにも埋葬してはならない」といった定めがないからである。村で生まれた者が村の外に埋葬され、村外で生まれた者が村の中に埋葬される。同様に、水中で生まれた者が陸に埋葬され、陸で生まれた者が水に埋葬される。そして、これは幾重にも繰り返される。
運命にも兆候はない。なぜなら、「ここで死んだ者は必ずここに生まれ変わる」といった定めがないからである。なぜなら、神界で死んで人間界に生まれる者もいれば、人間界で死んで神界に生まれる者もいるからである。このように、世界は機械につながれた牛のように、五つの運命をぐるぐると巡る。このように、死は兆候のないものとして随念されるべきである。
(7) 有限なものとして:人間の命の範囲は今や短い。長生きする者は百年ほど生きる。そこで世尊はこう仰せられた。「比丘たちよ、人の命は短い。新しい生へ行き、善行をなし、清浄な生を送る。生まれながらにして死なない者はいない。長生きする者は百年ほど生きる。」「人の命は短い。賢者はそれを軽蔑し、頭が燃えている者のようになる。死は必ず来る」。そしてさらにこう仰せられた。「比丘たちよ、かつて阿羅迦という師がいた。」(A IV 136)。これらの経典はすべて、七つの比喩で飾られているように説かれるべきである。
そしてさらにこう仰せられた。「比丘たちよ、比丘が『ああ、私に一昼夜だけ生きさせてくれ、世尊の教えに耳を傾けることができれば、きっと私にできることはたくさんあるだろう』と死の随念を育むとき、また『ああ、私に一昼だけ生きさせてくれ、世尊の教えに耳を傾けることができれば、きっと私にできることはたくさんあるだろう』と死の随念を育むとき、また『ああ、私に四、五口を噛んで飲み込むのにかかる時間だけ生きさせてくれ、世尊の教えに耳を傾けることができれば、きっと私にできることはたくさんあるだろう』と死の随念を育むとき、このような人々を、怠慢に住み、癌を滅ぼすために死の念を怠惰に育む比丘たちと呼ぶのである。
比丘たちよ、比丘が「ああ、一口を噛んで飲み込む間だけでも生きさせてくれ、世尊の教えに耳を傾けることができれば、きっと私にできることはたくさんあるだろう』と死の随念を育むとき、また『ああ、息を吸って吐くほど、あるいは息を吐いて吸う間だけでも生きさせてくれ、世尊の教えに耳を傾けることができれば、きっと私にできることはたくさんあるだろう』死の随念を育むとき、こうした者を、精進して死を念じて病を滅する修行に励む比丘たちという。
実に命は短く、四、五口を噛んで飲み込むほど長く生きれるかも確実ではない。死は範囲の限界についてこのように随念されるべきである。
(8) 瞬間の短さについて:究極的には、生物の生命の瞬間は極めて短く、たった一瞬の意識の瞬間の発生と同程度に過ぎない。戦車の車輪が回転しているときは、タイヤの円周上の一点でのみ転がり、静止しているときも一点でのみ止まるのと同様に、生物の生命もたった一瞬の意識の瞬間のみ持続する。その意識が消滅したとき、その存在は消滅したと言われ、次のように言われている。「過去の意識の瞬間に彼は生きていた、彼は今も生きていない、彼はこれからも生きない。未来の意識の瞬間に彼は生きていなかった、彼は今も生きている、彼はこれからも生きるだろう。現在の意識の瞬間に彼は生きていなかった、彼は今も生きている、彼はこれからも生きるだろう。」命・人・楽・苦、これらだけが、はためくひとつの意識の瞬間に結びつく。死んでいるものも生きているものも、集合体の消滅はみな同じであり、二度と戻ることはない。意識が生じなければ、世界は生まれない。意識があれば、それは生きる。意識が消滅すれば、世界は消える。これがこの概念が許す最高の意味である。。これが、瞬間の短さについて死を随念すべき方法である。
【結論】
このように、これら八つの方法のいずれかによって想起を行っている間、彼の意識は繰り返される注意によって反復の支えを得て、死を対象として落ち着き、障害は抑えられ、禅定の要素が現れる。しかし、対象は個々の精髄で述べられており、切迫感を呼び覚ますため、禅定は入定に至らず、ただ接近にとどまる。さて、出世間的な禅定と第二、第四の無形禅定は、個々の精髄の状態においても、特別な発展を経ることで、入寂に達する。出世間的な禅定は浄化の漸進的な発展によって入寂に達するのに対し、無形的な禅定は対象の超越という発展によって入寂に達する。なぜなら、これら二つの無形的な禅定においては、すでに入寂に達した禅定の対象を超越したにすぎないからである。しかし、ここ(世俗的な死の念定)においては、そのどちらもないので、禅定はただ到達に達するだけである。そして、その到達は手段によって生じるので、「死の随念」とも呼ばれる。
41. 死の念定に精進する比丘は、絶えず精進する。彼はあらゆる種類の生成(存在)に対する幻滅の知覚を得る。彼は生への執着を克服する。彼は悪を非難する。彼は多くの貯蔵を避ける。彼には物に対する貪欲の汚点がない。無常の認識が彼の中に成長し、それに続いて苦痛と非我の認識が現れる。しかし、死を意識する能力を身につけていない者は、死の際、まるで野獣や霊、蛇、盗賊、殺人者に突然襲われたかのように、恐怖、戦慄、混乱の犠牲となるが、彼はそのような状態に陥ることなく、惑わされず、恐れることなく死ぬ。そして、彼が今ここで不死を得なくても、少なくとも肉体が崩壊したときには幸福な運命に向かっている。さて、人が真に賢明であるとき、彼の絶え間ない課題は、このような強力な力に恵まれた死についてのこの記憶であることに違いない。以上が、詳細な説明の中で死の随念を扱っている部分である。