梅花流のご詠歌で「大聖釈迦牟尼如来」(紫雲・高嶺)と「大聖釈迦如来」(成道・涅槃)があるが、なぜですかという質問を受けたので調べる。
「大聖」はお釈迦様に限らず、広く仏菩薩の敬称として用いられており(大聖文殊師利菩薩、大聖不動明王など)、お釈迦様に付けられる場合は「大聖世尊」(大蔵経で52回)「大聖釈迦」(7回)「大聖釈迦牟尼仏」(6回)「大聖釈尊」(1回)の用例のみ。「大聖釈迦牟尼如来」「大聖釈迦如来」はどちらも、梅花流独自の名付けのようだ。
となると「牟尼」の有無は、題名の字数で揃えただけという気もする。ただし高嶺はずっと後で改題したので、そのときに字数を揃える意識はもうなかったのではないだろうか。
大聖釈迦牟尼如来御詠歌(S27)
大聖釈迦如来成道御詠歌(S38)
大聖釈迦如来涅槃御詠歌(S34)
大聖釈迦牟尼如来讃仰御詠歌(H7に英霊/戦没精霊供養御詠歌から改題)
なお、辞書で「大聖」はमहामुणि(mahāmuṇi、偉大なる聖人)の訳となっているので、大聖釈迦牟尼如来では牟尼が重複していることになる(大聖釈迦牟尼仏という用例もあるが)。重複を避けるならば「大聖釈迦如来」がベターだと思う。
ただし以上はただの推測なので、諸賢のご意見をお伺いしたいところである。