悟っていない僧侶が悟っていない檀信徒を導く

市の教職員辞令交付式に教育委員として出席。子どもがお世話になった先生多数。先生方がベストパフォーマンスを出せるよう、応援していきたい。

教育長さんから「未完成な教師が未完成の子どもを教えるという畏怖を忘れないで」というお話。未熟な親が未熟な子どもを育てる、悟っていない僧侶が悟っていない檀信徒を導くという話にも通じる。謙虚さと向上心とともに、利他の心を持ち続けなければと思う。

いまだあきらめざれば人のために説くべからずと思うことなかれ。あきらめんことを俟たんば、無量劫にもかなうべからず。(正法眼蔵自証三昧)

インクルージョンとダイバーシティのお話もあったが、先生方が号令なしに全員起立したり、挨拶がみんな「よろしくお願いします」だったりするのを見て、教育においてどんな多様性を、どこまで担保できるのか(担保するべきか)という問題も感じた。

多様性については「正しさ」にさまざまな方向があることを前提に、「それもあり、これもあり、でもそれはダメ」ぐらいでバランスよく育てられたらと思う。そのためには親と教師だけでなく多くの人が関わることが大切である。「一人の子どもを育てるには一つの村がいる(It takes a village to raise a child)」というのはアフリカのことわざだという。

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