三種の浄肉(生き物が比丘のために殺されたところを直接見ない・比丘のために殺されたと聞かない、比丘のために殺されたと考えられない)の話が出てくるジーヴァカ経(中部経典第55経)を講読。お坊さんたるもの、四無量心(慈=生き物に対する慈しみ・悲=殺された生き物に対する愍み・喜=人として生まれ修行できる喜び・捨=選り好みをせず食事に執着しない中庸の心)で食事を頂かなければならないことを説く。
『ファンシィダンス』で三種の浄肉だといってチキンナゲットを食べるシーンがあるが、現代ならばお店で買った肉はすべて三種の浄肉になってしまうわけで、「彼の来処を量る(その食事がどうやって食卓まで届いたかを想像する)」という観点ではやや無責任ではないだろうか。それよりも四無量心で食事を頂くところが大切で、その心は五観の偈にも受け継がれているように思う。
一には、功の多少を計り彼の来処を量る。(慈悲)
二には、己が徳行の全欠を忖って供に応ず。(喜)
三には、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。(捨)
四には、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。(捨)
五には、成道の為の故に今此の食を受く。(喜)
現代における問題は食への執着ではなく、もったいないと思って提供されたものを全部頂いてうちに、食べ過ぎで体を壊してしまうこと。コロナ明けで会食の機会が増えつつあるこれから、よくよく気をつけたい。