花は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きけん)に生うるのみなり(道元『正法眼蔵』)
お盆を前に、檀家さんと協力して境内の草刈りをした。ついこの間刈ったばかりだと思ったらいつの間にか元通り。雑草も花も同じいのちだというのは確かにその通りだが、お寺を草茫々にしておくわけにはいかない。
植物でも動物でも、自分に役立つものは大事にし、害になるものは排して人間の生活は成り立っている。人間に限ったことではないが、人間にはこの事実を前にしたとき、他の動物と違って多少なりともためらいや後ろめたさがある。逆に言えば、ためらいも後ろめたさもなく当然だと思ったとき、人間らしさも失ってしまうだろう。
『パンデミック』というアメリカのボードゲームがある。世界中にまん延するウィルスをみんなで協力して根絶することを目指す協力ゲームである。ウィルスは連鎖反応的に増える一方、人類のできることは限られている。緊急性の高いところから優先順位を付け、世界の破滅を救うためには望みのない都市を見捨てるという苦渋の判断も迫られる。
『ゴジラ』という日本のボードゲームも、東京湾から上陸し、熱戦を吐き出して暴れまわるゴジラに対し、避難経路を作って避難者を周辺三県へ逃がす協力ゲームである。ゴジラは人の多いところを狙ってくるため、孤立した少数の人を見殺しにしなければいけないこともある。
このようなトリアージ(選別)にはためらいも後ろめたさも残るが、協力ゲームなのでみんなで相談しあって意思決定し、その結果を分かち合うことができる。「あの選択は果たして正しかったのか?」という問いもみんなで検証して答えを出せば、次はもっと被害を少なくできるかもしれない。
草刈りの休憩で、みんな集まって外でお茶を飲んだ。額の汗を拭いながら談笑するひとりひとりの顔は、まるで仏様のようだった。
(河北新報「微風旋風」7月28日掲載)