南直哉師の布教師養成所講義録(H31)を拝読。テーマは1998年にあった總持寺の布教掲示板問題(「上見れば ほしいほしいの 星だらけ 下見て暮らせ 星の気もなし」)だが、これが差別であるとわからない人がいるのは曹洞宗の教育システムの問題であるとし、宗門にはびこる前例主義・法要万能主義・マニュアル文化・法話のパクリ文化から脱却するべく、普段から幅広く勉強して自分で考えておかなければならないことを述べている。
南師が永平寺一年目の修行僧に一仏両祖の名前を書かせたところ、呼称を問わず正しく書けた人は100人中3人だったとか、テレホン法話の中身が他のお寺さんが寺報に書いた話そのままだったとか、永平寺伝道部で「朝は麺を食べる」という公務帳(マニュアル)があったが、前任の役寮さんが檀家さんから麺を頂いていたためだったにも関わらず、その役寮さんが送行した後何年も、理由もわからず買ってまで麺を食べていたとか、確かに宗門の将来が心配になるエピソードばかり。「曹洞宗の伝統と称しているものの8割ぐらいは、所詮前例に過ぎないのです。」「『頭でものを考えることは不要だし、悪だ』という意識が根付いている。」「要は、普段から勉強していなければ喋るネタはない。」
「道元禅師の仏法を、一器の水を一器の水に移すがごとく伝えてきた」という話についても、「道元禅師の器とアナタの器が本当に一緒だというのか」とバッサリ。それよりも板橋禅師が嗣法について語っていた、カボチャの喩え(小さい実しかならないから無駄だと言わず、伸びている蔓を切らないで伸ばしていたら、今は小さい実しかできないかもしれないけれど、いつかひょっとすると、ドーンと大きなカボチャがなるかもしれない)のほうがリアルだという。
知ったかぶりをせずにコツコツと参学し、鵜呑みにしないで自分の頭で考え、間違いには謙虚に向き合って発信し続けることが大切だと改めて思った(鵜呑みにしている)。