著・鈴木隆泰/春秋社(2021年)
春秋社の新シリーズ「思想としてのインド仏教」第一弾。気鋭の仏教学者が現代の言葉で仏教を説き直すこのシリーズは、今後もとても楽しみにしている。本書では日本仏教に大きな影響を与え、道元禅師が修証一等にたどり着くきっかけとなった如来蔵思想「誰でも成仏する素質がある」について、その成り立ちと展開、そして道元禅師のような疑問にどう答えられるかを考察する(なお本書では道元禅師については触れられていない。道元禅師との関連付けは評者によるものである)。
宗侶には有名な話であるが、道元禅師は十五歳のとき、比叡山で数々の経典を読むうちに、「顕密ニ教共談ズ、本来本法性、天然自性身ト。若シ此ノ如ラバ則チ三世諸仏甚ニ依テカ更ニ発心シ菩提ヲ求メンヤ(そのまま仏というならば、三世の諸仏が発心し、悟りを求める必要があったのか)」という疑問をもつようになる(『建撕記』)。そして如浄禅師への参学の後、「この法は、人々の分上にゆたかにあそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし(人々の身の上に豊かに具わっているのだが、修行しなければ現れず、証明しなければ得られない)」という修証一等という答えを見出す(『弁道話』)。
しかし修行して仏になるのではなく、「修行していればそのまま仏」という修証一等は、レベルをひとつ上げただけで、「そのまま仏」と近似しているどころか、きわめて本覚思想的であるという末木文美士博士の指摘(『仏典をよむ』)は、まるで西遊記におけるお釈迦様の掌のように、如来蔵思想の強い影響力を思い知らされる。
誰でも成仏が約束されていると、「それなら修行しなくてもいいよね?」という輩が現れることは、すでにインドでもいたようだ。これについて本書では三つの解決方法が挙げられている(185頁~)。
①そういう不信心な輩は除外される説(『涅槃経』)
一切衆生には仏性があって、その仏性は各自の身体に内在しており、諸々の衆生は数多の煩悩を滅ぼして後にブッダとなるのである。ただし一闡提はその限りではない。
なお「一闡提」は身分差別的な意味はなく、「欲望を貪る者」「自分に如来蔵・仏性があるのだから修行など無用だと考える極悪人」と説明されている。しかし著者は、このように例外を認めてしまうと、如来の慈悲という根本理念と相反してしまうという。
②そういう不信心な輩は成仏できなくなる説(『央掘魔羅経』)
成仏が約束されていたのに、現世での放逸という自らの過ちにより、成仏できなくなってしまう。
筆者によれば、ブッダは真実語者(言ったことが言った通りになる者)であり、将来の状況が未確定の場合は無記(答えない)に徹していたことを考えると、そのような者が成仏すると約束することはできないはずだという。
③そもそも如来蔵は成仏が約束されているということではない説(『大法鼓経』)
誰でも成仏する素質は持っているが、輪廻している間、その素質は遷移して自在なものではなくなっている。修行してその素質を開放し、自在なものにすることで成仏できるのであり、修行しなければ衆生のままである。
こうすることで一切衆生の成仏可能性を保証しつつ、修行無用論は回避することができる。
仏性があるから修行しなくてよいのではなく、仏性があるからみんな挫けず修行しようという「仏教徒の決意・誓い・願い」が如来蔵思想の意義であり、このような教えを最善の治療薬であると選択した仏教徒が過去にいたことを大事にしたいと筆者はいう。道元禅師が修証一等の教えに取り込んだ本覚思想の枠組みも、この精神が息づいているといえるのではないだろうか。
(一)すなわち、この〔一切衆生に仏性ありという〕ことを聴聞しないため、一群の心が劣った人々には、自らを蔑むという過失が有るから、菩提に向けて発心することがない。
(ニ)たとえ菩提心を発しても、その人には「私は〔菩提心を発していない他の人より〕勝っている」との心があるので、まだ発心していない人々に対して「劣った者だ」との想念を抱く。
(三)そのような思いを抱くその人には、正しい智は生じない。したがって、虚妄そのものに執着し、真実そのものを見いだせない。
(四)虚妄とは、衆生たちの過失をいう。それは作られた、客塵のものであるから。真実とは、その過失の無我(空)なることで、本来清浄な諸徳性をいうのである。
(五)非実在なる諸過失に執着して、真実在なる諸功徳を誹謗〔しているうちは〕、有智者(菩薩)は、衆生と自らを平等に見る慈愛を獲得しない。
しかしこ〔の仏性の教え〕を聴聞すると、その人には、(一)努める気持ちと、(ニ)師としての尊敬と、(三)智慧(般若)と、(四)〔後得〕智と、(五)大悲という五法が起こるので、したがって、その人は(一)下劣心なく、(二)平等観を持ち、(三)過失なく、(四)徳性を有し、(五)自他を平等に愛する者として、速やかに仏位に到達するのである(『宝性論』、169頁)。