百丈野狐の提唱

今般の晋山結制式で取り上げた本則は「百丈野狐」。なぜ「不落因果」(撥無因果)は間違いで「不昧因果」(深信因果)は正解なのか、あるいはどっちもどっちと同列に見る『従容録』の狙いは何なのかということについて、本則行茶で提唱した。足が痛くならないように椅子を用意したが、儀式でもあるので10分ぐらいしかお話できなかった。そこで考えていたことを忘れないうちにまとめておく。

「天気が良いのは行いが良かったからだ」とかよく言われるが、逆に天気が悪かったら行いが悪かったということになるだろうか。偶然、天災・戦争・疫病・事故に遭って命を落とした人に自業自得だというのは本人でなくとも承服できないだけでなく、残酷でもある。

因果応報には仏典のあちこちで多くの例外があることから、業を普遍的法則や客観的事実とみなすことはできず、主観的事実(自分にとってのみ意味のある事実)と理解すべきであるという(平岡聡『〈業〉とは何か』)。主観的事実に過ぎないならば、他人に対して因果を説くことはできなくなるはずだが、お釈迦様が十善業(十不善業)を行うことで死後に天界(地獄)に行くと説き、道元禅師が「因果の道理歴然として私なし」と仰るのはなぜだろうか。

主観的事実という前提で、仏教には「信じれば救われる」因果の道筋があるということになる。それは自分で勝手に設定していてはなかなかたどり着けないので、入門(授戒)の時点でプリインストールされているわけである。しかしこれは普遍的法則でなく、問題が生じるたびにアップデートしていかなければならないものでもある。実際、大乗仏教による利他の重視、禅仏教における坐禅の重視と、アップデートされ続けてきた。

アップデートの中で特に大きかったのは、因果の時間差をなくす「修証一等」の教えである。かつては善い行いも悪い行いも、「業」という見えないエネルギーとして溜め込まれて熟し、時間が経ってから(来世、さらに次の来世で)結果が出ると信じられていたが、この間隔をどんどん短くして、行ったそばから結果が出るファーストテンポ、さらに行うと同時に結果が出るマイナステンポまで縮めた(参考:『ハイキュー!!』)。善い行いはそれ自体心地よいものだが、心地よいという結果だけで終わり、後日果報が訪れるものではないため、幸せであり続けるには永遠に善い行いを続けていかなければならない。

ここまでは道元禅師の教えで、さらに一歩進めるならば、原因が結果を追い越して未来へ行き、原因→結果ではなく、結果→原因になる未来原因説を視野に入れなければならないだろう。「未来の原因が、現在の結果を生む」という未来原因説はプラジュニャーカラグプタ(750-810)が唱えたものだ。

例えば、「心などが変わることが繁栄をもたらす」という場合、未来の繁栄を期待して、人々は心がけをあらためようとする。つまり、未来の期待される結果が、現在の行動の原因となるわけである。(護山真也「来世の論証にみるPrajnakaraguptaの未来原因説」『印度学仏教学研究』5)

提唱では現在の結果に「前借り」という表現をした。現在、自分が分不相応に幸せだと感じているならば、それは未来における自分の善い行いの結果かもしれない。あるいは、現在善い行いをするのは、これまで何とか無事に生きてこられたことへの恩返しである。このような考え方を今もこれからも善い行いを続けていく動機にするのはどうだろうか(未来の善行が原因で、今の幸せが結果)。

しかし中には、今の自分が幸せだと感じていなかったり、これまでの人生があまり良いものではなかったという方も多いだろう。しかしそれを未来における自分の悪い行いの結果と捉えていてはネガティブスパイラルから抜け出せない。そこで未来はきっと幸せになるという希望をもって、その希望をもとに今の自分ができること、今の自分を変えていく努力があればよいのではないかと思う(未来の希望が原因で、今の努力が結果)。

主観的事実であるために、仏教としての基本はあっても運用は自分に任されている。仏祖から受け継いだものを大事に頂いて、主体的に行動していくことが肝要である。

晋山式当日は辛うじて晴れ、多くの方が「昨日住職が言ってた通り、行いが良かったからだな!」。そうじゃないという話をしたつもりだったのが……(笑)。

「前借り」を返すべく、とりあえず献血。

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