『達磨大師御和讃』の歌詞が気になって柳田聖山『ダルマ』(講談社学術文庫)を読む。歴史上の人物ということは間違いなさそうだが、禅宗に伝わる逸話は後世の創作のようだ。末木文美士先生が何かの本で禅宗の成り立ちについて仰っていたのはこのことか。
これらを踏まえて、改めて『正法眼蔵』25や『伝光録』28に説かれる達磨大師の話を読んでみたいと思う。
- ペルシャ出身で、493年に遷都した北魏・洛陽を訪れ、永寧寺の9階建ての塔を賛嘆した(『洛陽伽藍記』)。
- 南天竺の出身、バラモン王の第三子で、辺境の国での仏教の衰えを心配して中国にやってきた。弟子は道育と慧可のみ。壁観と四行を説く(『二入四行論』)
→この2つが最古で、史実に近そう。 - 梁の武帝と対面し「廓然無聖」「無功徳」や「不識」といった名言を残す。
→この話の初出は没後200年の『菩提達磨南宗定是非論』。南宗禅の神会(670-762)が、北宗禅と違って権力におもねない立場を明らかにするために創作。 - 子供の頃、父王が般若多羅尊者に贈った宝珠を見て、兄たちは宝珠を褒めたが、法の宝・知恵の輝き・心の明るさにまさるものはないと言った。
→この話の初出は没後500年の『宗鏡録』『伝灯録』。『二入四行論』に出てくる明珠の話を脚色したか? 般若多羅尊者の存在自体も没後300年に編まれた『宝林伝』が初出で創作らしい。 - 「面壁九年」は、壁観の誤解から生まれた逸話。壁観とは、壁のような心で坐禅をするということであって、壁を観ることではない。
- 「慧可断臂」は、慧可の弟弟子で『二入四行論』を編んだ曇林が、経典や仏像を守ろうとして賊難で両臂を切断された話が転化(これはWikipedia情報)。
- 『二入四行論』では、四つの実践=報冤行(忍辱)、随縁行(禁欲)、無所求行(無執着)、称法行(菩薩行)が重要だが、あまり知られていないのは普通すぎるからか。