限られた人のための釈迦の仏教が、いかにして大乗仏教という一大ムーブメントとなったのか、富永仲基の「加上の説」に沿って5つのお経を見ていく。「青年」と「講師」の対話形式になっており、長大で複雑な大乗経典の特徴が明快に示されている。メモしておきたい箇所数多。
大乗仏教は在家集団からではなく部派仏教の内部から生まれたという説を筆者は支持する。「昔から伝わっているお経には書かれていないけれども、論理的に正しければ、それは釈迦の教えと考えてよいのではないか」(p.39)この主張が、仏説ではない大乗経典の誕生に結びついたという。
『般若経』では、「私たちはすでにブッダと出会って誓いを立てているのだから、菩薩である」(p.61)と考え、空というシステムによって「本来は輪廻を繰り返すことにしか役に立たないはずの業のエネルギーを、悟りを開いてブッダになり、涅槃を実現するために転用することができる」(p.68)として多くの人が日常生活で実践可能な六波羅蜜を示す。さらにお経そのもの、教えそのものをブッダと捉え(法身)、お経を讃えることを勧める。大般若会は、ブッダと出会うための法会であるということになろう。
『法華経』も、誰でも前世でブッダと出会っているという見方を受け継ぐが、『般若経』では分けられていた声聞・独覚・菩薩をひとまとめにして救う一仏乗を、法華七喩という巧みな喩えを使って説く。お経が絶対的な力をもったため空というシステムはいらなくなり、現世利益もつながると考えられるようになる。誰でも仏になれるという主張は、中国から日本に大きな影響を与えた。
『浄土経』は「パラレルワールド」たる極楽浄土の概念を創造し、念仏だけで往生できると説く。さらに親鸞は「すでに私たちは極楽に行くことが約束されているのだから、念仏は願うためではなく感謝のために唱えるのだ」(p.151)と解するようになった。一世界一仏の原則により、すでに阿弥陀仏のいる極楽浄土でブッダになることはできないが、無限の多世界を想定することで、極楽からさらにその先の世界に行ってブッダになると当初は考えられていたがやがてその原則は曖昧になる。
『華厳経』は「別の世界にいるブッダが移動できないのなら、ブッダ(毘盧遮那仏)が自らの映像(釈迦牟尼仏)を私たちの世界に送ってくれると考えればよいではないか」(p.171)というアイデアによって一世界一仏の原則を守り、「自分がすでにブッダであることを自覚する」だけだから修行はいらないと悟りの問題を解決済みにし、現世利益を第一とする実利的な仏教に向かわせた。
『大乗涅槃経』も「もともと私たちの内部にブッダは存在していて、私とブッダは常に一体である」という如来蔵思想を説く。これがヒンドゥー教との違いをなくし、インドにおける仏教衰退の理由になったと筆者は見ているが、道教などをベースに釈迦の仏教から禅定を取り入れた禅もこれと同様、「私たちの内側には仏性があり、それに気づくことが悟りへの道である」と捉えて、煩悩を消すためではなく、自分がブッダであると確認する作業として坐禅修行を位置づける。修行不要論が加速する中で、修行の大切さを改めて説いたことから、著者は「私は日本の名僧・高僧と呼ばれる人たちの中で最も釈迦に近かったのは道元だと思います」(p.214)という。これが日本で武士階級の共感と尊敬を生み、支援を得ることになる。
しかし日本仏教には「律」(仏教教団の規則)はないまま現代に至ったため、お金でお布施をもらう、結婚して子供を作る、お酒を飲む、お寺に来た人から僧侶が直接拝観料を取るといった、律では禁じられた行為がまかり通るという特殊な状況を生み出している。科学的に証明できないことを心の問題に置き換える「こころ教」の世界的広がりもあいまって厳しくなっていくだろうが、人の苦しみを取り除くという、釈迦の仏教にも大乗仏教にも共通する理念をもって、ホスピスケアや自殺防止などに関わっていくべきであると結ぶ。
付論として最新の仏教学成果である『大乗起信論』の中国撰述説について少々。
日本仏教は大乗仏教の流れの中にあるが、大乗はブッダの教えそのものではないし、部派仏教から釈迦本来の教えに戻したものが大乗仏教なのでもないし、宗派の教祖は釈迦と同じ思想をもつ完全無欠な人物でもない。宗教的感情や正統性を示したいという思いによって、学問が歪められてはならないと著者はいう。本書のように客観的な目で大乗経典の展開を理解し、自分がいる場所を位置づけた上で、その中にどっぷりと潜り込んでいくということが、「因果にくらまず」ということではないかと思う。