初期経典ですらお釈迦様が語ったものか、弟子が付け加えたものか定かではないのだから、仏教はその時代その時代を生きて衆生の悩み苦しみを取り除いてきた諸々の仏祖の教えと理解して、現代には現代の「ブッダ」がいてもよいという。「吾等が当来は仏祖ならん(『修証義』)」をさらに推し進めて、「いつ仏祖になるの? 今でしょ!」である。
仏教とは、最初に真理を悟ったゴータマ・ブッダと、それを追体験した仏教者たち、さらには真理が具現化された偉大なブッダたちが、そこに生きる人々にふさわしい苦悩からの脱却と救済を説き、一方でその教えを信じ、その道を歩んだ人々の総体である。
初期経典が全てお釈迦様が説いたと考えにくい例として、十二支縁起が、三・四・五・六・八・九・十とさまざまに説かれていることや、身分や女性の差別を当然にようにみなす経典(『小業分別経』など)、生苦が結果になったり原因になったりしていることが挙げられ、悟りを開いたお釈迦様が人を見て法を説いたという「対機説法」で説明するには無理があるという。
一方、仏教が伝播した国々では「菩提」が儒教や老荘思想の影響を受けて「成道」と呼ばれるようになるといった格義仏教や、神仏習合や念仏といった独自の発展が見られ、それぞれの祖師が厚く敬われているのは、仏教がお釈迦様だけの教えだけではなく、その国その時代に合わせて展開していくものであることを示している。
最後に筆者は日本仏教について悲観的な意見を述べ、既存の仏教の立場や価値観を一旦離れて、人々の苦悩と切実な声に向き合える僧侶(現代のブッダたち)を作ることが必要であるという。「けしからん!」とばかり言っていては、衰退は歴史的に見ても免れないと。実際、東日本大震災や自死者の増加を背景に、僧侶の研修会で「傾聴」がクローズアップされており、そこから新たな動きが始まりそうな気配もある。現代人は今どんな風景を見て、何を感じているのか。今に生きる仏教を問う者たちは、僧侶か否かを問わず、すでに現れ始めていると思う。