お正月で大般若経を読んでいて、ふと南直哉さんの言葉を思い出しました。
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数十年前までは、地域の暮らしで「お互いさま」という言葉が生きていました。実際、助け合わないと生きていけない毎日の中で、お互いに迷惑をかけたり・かけられたり、という関係が当たり前だったのです。この「迷惑」を折り込み済みの「和」であり、「ムラ社会」でした。
ところが、近代化の進展以降、「他人との軋轢・摩擦は最小限にしなければいけない」という倫理観は依然として根深いまま、次第に「自己決定・自己責任」が強調されるようになってきました。
このふたつが最終的に合体すると、「とにかく自分が他人に迷惑をかけてはいけない」となります。すると翻って、「他人に迷惑をかけられたら許せない」となるでしょう。
私はこの「迷惑」観が結果的に共同体を劣化させ、個人を生き辛くさせると思います。仏教は人間の実存を「苦」と喝破しました。だったらそれは、他人にとっての「迷惑」的実存ということでしょう。ならば、人間が人間として実存する限り、「苦」と「迷惑」は止むことはなく、それを許容しないということは、人間の存在を否定するのと同じことです。
「迷惑」を許し合う社会を再建する必要があると、私は思います。
(『「悟り」は開けない』)
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迷惑を許し合えるようになるには何が必要か。全て自分の責任と思って許す忍辱波羅密多か、迷惑をポジティブに捉える上機嫌さか、迷惑を迷惑と感じない平常心や鈍感力さが考えられます。
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「私だって昔、誰かに迷惑をかけたかもしれない。だから、かつて誰かに迷惑をかけた私が、これくらいの迷惑を被るのは当たり前である。」このように考えるならば、現在の苦痛を忍ぶことができます。苦しみは自分の過ちから起こったものなのに、どうして他人に対して怒るのでしょうか。
私に迷惑をかける人がいるのは、私のせいかもしれません。その人の心が汚れて不幸になってしまったら、私が不幸にしたことになるのではないでしょうか。
その人の迷惑を耐え忍ぶならば、私の過ちは全てなくなるでしょう。それでもその人は、心が汚れたままで不幸になってしまうでしょう。その意味で実は、迷惑をかけているのは私のほうであって、その人は私に恩恵を与えてくれる人なのです。それなのにどうして、私に迷惑をかける人を怒るのでしょうか。
ですから「生きとし生けるものは、仏様と等しく、幸せを生ずる原因である」とお釈迦さまは説かれたのです。
(『菩提行経』第4章)
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数学者のマルシャル・ロサダは、10年間にわたって、業績のいいチームと悪いチームを研究した。そして、その膨大な数学的モデルに基づき、ビジネスチームに成功をもたらすためには「メンバー間のポジティブな相互作用とネガティブな相互作用の比率」が、最低でも2・9013対1でなければならないことを突き止めた。これは「ロサダライン」、または「3:1の法則」と呼ばれている。
一つのネガティブな意見や行動の悪影響を打ち消すのに、3倍の量のポジティブな意見や行動が必要だということだ。ポジティブとネガティブの割合がこのライン以下だと、チームの仕事ぶりは急速に落ち込む。ラインを上回る比率であれば、チームは能力を存分に発揮する。調査結果によれば、6対1くらいが理想だという。こういう点からすれば、上機嫌を周囲に振りまいてくれる人には感謝すべきであろう。一方、自分の感情のままに不機嫌を振りまいてしまう人は職場に対して大きな害を及ぼしていることになる。
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会社に必要なのは「やる気のある人」より「機嫌の良い人」
http://www.gentosha.jp/articles/-/7599
大般若経は煩悩なども結局のところは般若波羅蜜の現れであると肯定します。しかしその肯定は、ありのままでよいという肯定ではなく、仏の世界から見ればという肯定です。自分や自分の身の回りに起こっていることを、仏様の視点で見たらどうなるだろうと考えた上でポジティブに捉えられれば、上機嫌でいられるのかもしれないなと思いました。一年の計は元旦にあり、今年はそう心がけてやっていきたいと思います。