大般若会でおなじみの『大般若経』第578巻、般若理趣分品を読解。同じものを不空が翻訳したという『理趣経』の十七清浄句では、性的快感が実は菩薩の境地であるとしているのに対し、理趣分品では全く逆で禁欲と善行こそが菩薩の境地であると説くところが興味深いです。
『般若心経』と同じで、般若波羅蜜に帰依する呪文(ギャーテーギャーテー……/ノーボバギャバテーハラジャハラミタエイ……)が最後にあるのですが、ただ唱えればOKというのではなく、呪文の力を得つつ善行を行い、修行に精進するべきことが説かれていて安心します。
大般若波羅蜜多經卷第五百七十八 第十般若理趣分(抄訳)
私はこのように聞いた。ある時、世尊は、全ての如来のダイヤのような力をもつ平等性の智慧によって稀有で優れた功徳を成就され、全ての如来が授かる宝冠を得て、全世界を超越しておられた。全ての如来の世界においてダイヤのような智慧を得て、世界中を自由に見渡すことができ、全ての如来の真理を決定する大いなる智慧の印を満たし、全ての如来が結局のところ空であるという平等性の印を満たし、さまざまな行いにおいて方便が成就して残るものもなく、全ての生きとし生けるものの罪のない願いを満たし、過去現在未来を通じて広大に世界を照らす身と口と心のはたらきは絶えることがない。ダイヤのように諸々の如来と同等であり、変わることも壊れることもない。
この世尊は世界の果てにある「自由に足を救うところ」の王宮にいらっしゃったが、そこは全ての如来がいつも行き交い、賞賛している宝石の大宮殿である。その宮殿は計り知れない価値の宝石からなり、さまざまな飾りが付いており、たくさんの色彩が互いに映し合って輝きを放ち、吊り降ろされた鐘や鈴がそよ風に揺れ動くたびに美しい音をたて、屋根飾り、絹の幡、柱飾りが宝石や月の形をした屋根飾りを優しくなでていた。このように飾り付けられ、聖人や仙人が喜ぶ宮殿に、世尊は八十億の菩薩と共にいらっしゃったのである。
この八十億の菩薩は皆、記憶力、禅定力、理解力を備えており、その功徳の大きさは、どんなに長い時間かけても賞賛することはできないほどである。その中にダイヤをもつ菩薩、世間を自在に観察する菩薩、虚空のように無限の教えを収蔵する菩薩、ダイヤの拳をもつ菩薩、絶妙でめでたい菩薩、大空のように無限の教えを収蔵する菩薩、発心してすぐに教えを説く菩薩、一切の魔を降伏する菩薩を主として八百万の菩薩がおり、周囲を取り囲んで皆正しい教えを説いていた。それは最初から最後まで善く、表現は巧みで素晴らしく、欠けるところなく満ちており、清浄で純粋だった。
その時、世尊はこの菩薩たちのためにこう説かれた。全ては深遠で知り難い智慧の道であり、清らかな入口である。この入口とは、菩薩の境地である。では一体何が菩薩の境地なのか。
修行の喜びという清らかな境地。偏見の断滅という清らかな境地。怒りを鎮めた喜びという清らかな境地。愛執の断滅という清らかな境地。身の不浄を破るという清らかな境地。功徳による装飾という清らかな境地。心を信頼するという清らかな境地。大きな光明を得るという清らかな境地。善なる行いは安らかで楽しいという清らかな境地。善なる言葉は安らかで楽しいという清らかな境地。善なる気持ちは安らかで楽しいという清らかな境地。身体と心をはじめ、仏教のありとあらゆる理論は空であるという清らかな境地。これらが菩薩の境地である。
なぜなら、全ては空であり、本質がなく、静まりかえっていて清浄だからである。全てが清らかなのだから、智慧の完成も最高に清浄である。これが菩薩の境地であると、菩薩は学ぶべきである。世尊はこのように菩薩の境地と、智慧の道と、清らかな入口を説かれて、ダイヤをもつ菩薩たちに告げておっしゃった。「もしこの全ては深遠で理解し難い智慧の道であり、清らかな入口であると聴き、深く信用するならば、その時から成仏するまで、全ての煩悩は心を汚すことができなくなり、それまでに煩悩や悪い行いや苦しみの報いがたくさんあったとしても、もう心を汚すことはできない。たくさんの悪い行いをしてきたとしても、たやすく消滅して悪い世界に生まれ変わることはない。もしこの教えを心に留め、毎日休まず読み、合理的に考えていけば、今生のうちに全ての平等性というダイヤのような境地に至り、自在になるので、優れた喜びを受け、将来十六の大菩薩の生を経て、ダイヤのような如来となって、すみやかに最高の悟りを得るだろう。
①そのとき、世尊はまた、世間を遍く照らす如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「全ての如来は静まり返った真理である」という仏の道であり現前する菩提の入口である。……
②そのとき、世尊はまた、全ての悪い教えを調伏する釈迦牟尼如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「全てに共通して平等である」という深遠な道であり勝利者の入口である。……
③そのとき、世尊はまた、本質的に清らかな如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「全てが平等な世間を自在に観察するための智慧の印」という深遠な道であり清らかな入口である。……
④そのとき、世尊はまた、世界一の王様である如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「全ての如来がみんな水を注いで祝福する」という深遠な道であり、智慧を収蔵する入口である。……
⑤そのとき、世尊はまた、全ての如来の智慧の印は一切の仏様の秘密の入口を保証するという如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「全ての如来が信頼する智慧の印である」という深遠な道であり、ダイヤの入口である。……
⑥そのとき、世尊はまた、全てには無意味な議論がないという如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは深遠な道であり、説法の入口である。……
⑦そのとき、世尊はまた、全ては如来のグループに含まれるという如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは広大な観想の輪に入るための深遠な道であり、平等性の入口である。……
⑧そのとき、世尊はまた、供養を広く受けるための本物の福田という如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「一切が供養である」という深遠な道であり、この上ない入口である。……
⑨そのとき、世尊はまた、全てを完全に調伏する如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは「秘密の智慧を集めて生きとし生けるものを鍛錬する」という深遠な道であり、智慧を収蔵する入口である。……
⑩そのとき、世尊はまた、全ての本質は平等であるという真理を打ち立てる如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは全ての本質であり、深遠な道であり、最高の入口である。……
⑪そのとき、世尊はまた、全ては屋舎であり真理を収蔵するという如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは全ての生きとし生けるものにあり、遍満する深遠な道であり、真理を収蔵する入口である。……
⑫そのとき、世尊はまた、完全に外側のない真理という如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは、教えも意味も平等な中に完全に住まうダイヤの入口である。……
⑬そのとき、世尊はまた、遍く照らすという如来の姿をとって、菩薩たちのために説かれた。智慧の完成とは、「如来たちの秘密の真理と、全ての無意味な議論でない性質を得た、たいへん喜ばしく堅固で偽りのない呪文である」というダイヤの真理であり、徹頭徹尾、最高で一番の深遠なる道であり、最高の入口である。……
そのとき如来は呪文を説かれた。「ナモーバガバテー、プラジュニャーパーラミターヤイ、バクリヴァジュラエー、アパリミタグナエー、サルヴァ・タターガタ・パリプージタエー、サルヴァ・タターガタ・アヌジュニャー・アヌジュニャータ・ヴィジュニャタエー、タドヤター、プラジュニェー、プラジュニェー、マハー・プラジュニェー、プラジュニャー・バーサカレー、プラジュニャー・ローカレー、アンダカーラ・ヴィダマネー、シッデー、スシッデー、シッダントゥ、マーン、バガヴァティ、サルヴァ・アンガ・スンダレー、バクティヴィスリジェー、プラサーリタ・ハステー、サマーシュヴァーサカレー、ブッダ、ブッダ、シッダ、シッダ、カンパ、カンパ、チャレー、チャレー、ラヴァ、ラヴァ、アーガッチャ、アーガッチャ、バガヴァティン、アビランバ、スヴァーハー(世尊に帰依し奉る。恭敬すべきダイヤモンドの如く、無量の功徳をもち、一切の如来によって供養され、一切の如来の智慧によってよく知られている究極の智慧に帰依し奉る。すなわち、智慧よ、智慧よ、偉大なる智慧よ。智慧を顕現するものよ。智慧の世界にあるものよ。煩悩を除滅するものよ。成就されたものよ、よく成就されたものよ。我を成就せよ。世尊よ。一切の姿が美しく、信仰を生み出し、手を差し伸べ、よく救護をなすものよ。覚れる者よ、覚れる者よ。成就した者よ。成就した者よ。震動せよ。震動せよ。行ぜよ。行ぜよ。叫ばん、叫ばん。来たれ、来たれ、世尊よ、歓喜せしめよ。よろしく。)」この呪文は過去現在未来の仏様たちが皆唱えて守っているものであり、覚えていると全ての障害が滅し、心のままに修行が完成しないことはなく、すみやかに最高の悟りを得るだろう。
そのとき如来はまた呪文を説かれた。「ナモーバガバテー、プラジュニャーパーラミターヤイ、タドヤター、ムニダルメー、サングラハ・ダルメー、アヌグラハ・ダルメー、ヴィムクティ・ダルメー、サダー・アヌグラハ・ダルメー、ヴァイシュラマナ・ダルメー、サマンタ・アヌパリヴァルタナ・ダルメー、グナ・サングラハ・ダルメー、サルヴァ・カラ・パリプールナ・ダルメー、スヴァーハー(世尊に帰依し奉る。究極の智慧に帰依し奉る。すなわち、牟尼の仏法よ。包括する仏法よ。助けとなる仏法よ、解脱を得る仏法よ、いつも助けとなる仏法よ、寂静の仏法よ、普遍的に広がっていく仏法よ、功徳を包括する仏法よ、一切の行為を完全に満たした仏法よ、よろしく。)」この呪文は仏様たちの母であり、読むものは全ての罪がなくなるので、いつも仏様たちと出会い、前世を思い出して、すみやかに最高の悟りを得るだろう。
そのとき如来はまた呪文を説かれた。「ノーモーバガバテー、プラジュニャーパーラミターヤイ、タドヤター、シュリイェー、シュリイェー、シュリイェーセー、スヴァーハー(世尊に帰依し奉る。究極の智慧に帰依し奉る。すなわち、吉祥よ、吉祥よ、吉祥よ、吉祥なるものよ、よろしく。)」この呪文は大きな力を備えており、覚えているものは修行の妨げがなくなり、正しい教えを記憶して忘れず、すみやかに最高の悟りを得るだろう。
そのとき世尊は、これらの呪文を説き終わると、ダイヤをもつ菩薩たちにこのようにおっしゃった。生きとし生けるものが毎朝このような智慧の完成の深遠な道と最高の入口を心から聴いて休むことがなければ、悪い行いによる障りが消滅し、すばらしい喜びが現前するだろう。大安楽の菩提心という偽りのない功徳を今のこの身に必ず完全に満たすことができ、全ての如来のダイヤの秘密を成就して、すぐに大きなダイヤを堅持し、如来の本質を得させるだろう。
もし生きとし生けるものが、多くの仏様のところで善行をせず、誓いを久しく起こさなかったら、この智慧の完成の深遠な道と最高の入口を聴いたり、書き写したり、読んだり、供養したり、崇拝したり、思惟したり、就学したりすることはできない。必ず、多くの仏様のところで善行を積み、長く誓いを立ててきた者だけが、この深遠な道と最高の入口の一句一字を聴くことができたのだ。ましてや完全に読んだり、覚えたりするのは言うまでもなく難しい。もし生きとし生けるものが数えきれないほど多くの仏様を供養し、崇拝し、尊重し、賛嘆するならば、この智慧の完成という深遠な道を備え、聴くことができる。もしこのお経が地方に広がったら、神様も人も阿修羅も全て仏塔のように供養するべきである。また、この経を身につけたり手に持ったりしていれば、神様も人も皆礼拝するはずである。
もし生きとし生けるものがこのお経を長い間覚えていたならば、前世からの智慧を得て、いつも努力し、善行を積むので、悪魔や外道も引き止めることができない。四天王や天人たちがいつも付き従って擁護し、少しの間も見捨てることがない。災難で死んだり、無罪の罪に問われて死刑になったり、老いて病気になったりすることは最後までない。仏様も菩薩たちもいつも護持して、善行を積ませ、悪をなくすので、仏土に心のままに往生し、悟るまで決して悪いところに生まれ変わらない。
生きとし生けるものがこの経を保持するならば、必ず極まりない功徳を得るであろう。私は今略して少しだけ説いた。そのとき世尊はこのお経を説き終えて、ダイヤをもつ菩薩たちや天人たち位は世尊の教えを聴いて皆大いに喜び、信仰して仕えた。