妙法蓮華経如来壽量品

本山では峨山禅師の650回忌準法要中。「法要は最大の布教」昔、ある老師から教えられた。参列している人はお経の意味が分からなくても、僧侶の姿や声が見る人の心を打つのだと。そう思ってもらえるよう精一杯お勤めしている。

多くのお経の最後に、お釈迦様の説法を聞いた菩薩たちが「歓喜し、信受奉行しき」というのがあるが、参列者だけでなく自分自身が、法要の中でそんな境地になりたいものだ。

93歳というご老師が焼香師を務められた法要があった。付き人に支えられながら、やっとのことで須弥壇を登っていく姿を見ていたら、亡くなった祖父が導師を務めた最後の葬儀を思い出して泣けてきた。その後、献供も大きな茶湯器を手が震えながら支えている姿に、お唱えしていたご詠歌はめちゃくちゃ。まだまだ甘ちゃん。優しさと慈悲は違うものだと反省しきり。

妙法蓮華経如来壽量品を読んでいると、あばれる君を思い出してしまう。
「皆さんは私が亡くなったと思っていたかもしれませんが、実は生きていました!(ここで鬼塚ちひろの月光)
私はずっとずっと昔に悟ってから、一度も死んだことなどなかったんです! でも本当のことをいうと修行をさぼるのもいるので、死んだことにしても嘘にはなりません! そこの君、疑ってたらすぐ疑いを捨てなさい! 私はいつでもみんなが成仏するにはどうしたらいいか、考えているんですよ! 」

正しい教えの白蓮第十五章―如来の寿命の長さ(詩頌)

私が悟りを得てブッダとなってから、これまで経過した時間の長さは幾千万億劫、ほとんど無限に等しいのです。その間も私は仏法を説いて幾千万億もの多数の生きとし生けるものを教化し仏道に導き入れました。かくして無限の長い時間が経ち、私はただ生きとし生けるものを救うために、方便として般涅槃に入った姿をこれまで現してきましたが、本当は般涅槃に入ったことなど一度もありません。いつもここに留まって仏法を説き続けているのです。私はいつもここに留まっているとはいえ、いろいろな神通力を用いることで、心が倒錯した人にとっては、近くにいるのに私の姿は見えないようにしているのです。

多くの人々は、私が本当に入滅したと考えて遺骨を供養し、ことごとく私を恋慕する気持ちを抱き、どうしても私に会いたいという抑えがたい渇望の心を起こします。そのうち私に心服し、その性質は素直になり、その心は柔軟になっていきます。一心にブッダにお会いしたいと願い、そのために自らの身命を捨てても惜しくないと考えるようになります。その時にこそ、私は大勢の弟子と共に霊鷲山に姿を現すのです。私はその時、生きとし生けるものに対し、次のように語りかけます。「私は常にここに留まっていて、決して滅びることはないけれども、生きとし生けるものを教え導くための方便として、滅もあり不滅もあるように示したに過ぎない。もし他の国土の人々の中に、私を敬い、私の出現を心から願うものがあるならば、私はそこに赴いて、類なき最高の仏法を説こう」と。しかし君たちはこの最高の仏法を聞くことなく、私が入滅したとだけ思い込んでいるのです。

私が諸々の生きとし生けるものを見ていると、みな苦しみの海に沈んでいます。それゆえわざと姿を現さないでいて、私を渇望する気持ちを起こさせ、心底から私を恋い慕うようになった時、初めて姿を現して彼らに仏法を説きます。私の神通力はこの通りです。数えきれない無限の長い時間にわたって、私は常に霊鷲山などのさまざまな場所にじっと留まっています。世界の終末が来て人々がその劫火で焼かれるように見えるときでも、私のいるこの国土は全く安穏で、神々と人間がいつも満ち溢れています。

この国土にある園林や楼閣はさまざまな宝玉で美しく飾られており、宝の木にはたくさんの花や果実がついていて、そこは人々が楽しく遊ぶ場所になっています。神々は天の鼓を打ち鳴らし、絶えずさまざまな音楽を奏でます。また曼荼羅の花を雨のように降らせ、ブッダと仏弟子たちにふりかけます。私のいる国土はこのように決して破壊されることはないのに、みんなはここが劫火で焼きつくされ、憂い・恐れ・苦痛などが充満しているところだと見るのです。さまざまな罪を負った者たちは、悪業の因縁によって、数えきれないほど長い時間をかけても三宝の名称すら聞く機会がありません。

ところが逆に、人々が功徳を積み、柔和で素直になっているならば、そのような者たちは皆、私自身がここにいて仏法を説いているのだと見るのです。ある時は、このような者たちのためにブッダの寿命は量ることができない永遠のものだと説き、またある時は、久しい時を経てやっとブッダに会えた者に対しては、ブッダに巡りあうことがいかに難しいかを説くのです。私の智慧の力は、このように自由自在なのです。私の智慧の光が無限に照り輝き、私の寿命が無数劫の長きにわたるのは、私が久しい間、善業を積んで得た結果にほかなりません。君たちよ、智慧ある者はこのことに対して、決して疑いを抱くようなことがあってはなりません。疑いが生じたら、それをことごとく断ち切って二度と再び起こらぬようにすべきです。ブッダである私の言葉はみな真実であって、偽りではありません。

それはあたかも、医者がすぐれた方便によって、混乱した息子の病気を治すために、本当は自分が生きているにも関わらず、もう死んでしまったと思わせて薬を飲ませた場合と同じです。ブッダである私が偽りを説くといって非難されることがないのは、この医者の場合と同じです。私もまた世間の生きとし生けるものの父親として、みんなのさまざまな苦しみや煩悩を救う者です。ところが凡夫は心が倒錯してしまっているから、私が真実には生きていて入滅することなどないのに、「入滅した」と言い張ります。また絶えず私の姿を見ていると、いつでもブッダに会えるという驕りの心が生まれ、放逸で、五欲に囚われ、悪道に落ちてしまうこともあります。私は常に生きとし生けるもののうちで、修行している人と、修行していない人との区別をよくわきまえて、その人を救うのに、最もふさわしく適切であるように、さまざまな仏法を説き示すのです。私は自らいつも、次のように考えています。「人々を無上道に導き入れ、速やかに仏身を成就させるためには、どのようにすればよいのだろうか?」と。

 

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