地元の公民館で行われている毎年恒例の写経教室。写経の前に1時間ほど時間を頂いてお経の解説をしている。1年目は『般若心経』、2年目は『法句経』、3年目は『修証義』、4年目は『遺教経』。5年目となる今年は、『盂蘭盆経』と『餓鬼事経』を取り上げた。
『盂蘭盆経』は、お盆の由来が説かれたお経だが、中国撰述であることが知られている。「道士」「七世父母」「施主家」「孝慈」などの中国的な表現が出てくることから、お釈迦さまの時代の話にしては不自然さが際立つ。さらに過去の悪業にどうしても目が行ってしまうため、お盆期間の法事に読むのをやめていた時期もある。
しかし『餓鬼事経』の存在を後から知って、このお経の見方がだいぶ変わった。大きな違いは、主人公が目連ではなく舎利弗であること、餓鬼になったのは直接の母ではなく四つ前の前世での母であること、餓鬼になった原因が明言されていること、お供え物を用意したのは在家者(王様)であることなどである。これらを補うと、『盂蘭盆経』の筋書きも納得しやすい。特に血縁より輪廻が主であることは、仏教で大事なところだと思う。
私たちは、無始の輪廻の中であらゆる生き物と関わってきている。今は他人でも、前世で親子であったり、夫婦であったりした人がいるならば、先祖だけに手を合わせるのでは不十分である。生きとし生きるもの(有縁無縁三界万霊)に慈愛の心をもって回向する。これがお盆のみならず、その派生である法事においても心がけたいことである。
盂蘭盆経
私はこのように聞いた。お釈迦さまが祇園精舎におられたときのことである。神通力で名高い弟子・目連尊者が初めて六神通を得て、自分を育ててくれた恩返しに、亡き父母を教え導きたいとお考えになった。そこで彼はその神通力をもって世界中を探したところ、亡き母を餓鬼界の中で見つけた。亡き母は飲食も摂れず、骨と皮の姿になっている。目連尊者は悲しみ、すぐに鉢にご飯を盛り、亡き母のもとへ送り届けた。母はご飯を手に取り、左手で鉢を支え右手で御飯を食べようとしたが、口に入れる前に炭に変わってしまう。結局食べることができず、それを見た目連尊者は悲しみのあまり号泣した。仕方なくお釈迦さまのもとに帰って、この一部始終を報告申し上げた。
お釈迦さまはこうおっしゃった。「目連よ、あなたのお母さんが前世で犯した罪は重く、あなた一人の力ではどうしようもありません。たとえあなたが親孝行だという名声がどんなに高くとも、天や地の神々、天魔や異教徒、道士や四天王もどうにもできないのです。しかし各地で修行している修行僧の不思議な力があれば、必ず脱出させることができます。これからあなたのお母さんを救済する方法を教えましょう。すべての困難がなくなり、苦しみや憂い、生前の罪も消し去るのです。」
お釈迦さまは続けてこうおっしゃった。「各地の修行僧は七月十五日になると雨季の修行を終えます。そのときに七代前の先祖から現在の父母のうち、困難な処にいる者のために、ご飯、さまざまな料理、果物、水、香油、燭台、敷物、寝具をお供えしなさい。ご馳走を尽くしてお盆に分け、各地から集まった徳の高い修行僧を供養するのです。この日、山地で坐禅をしていた者、四段階の修行を完成させた者、木の下で修行していた者、六神通で修行者たちを教え導いてきた者、菩薩や仏たちの化身である修行僧など、全ての修行僧が集まり、一同が会してみな心をひとつにしてご飯を食べます。きよらかな戒律と仏弟子の生活を守る修行僧たちの徳はどんなに広く、大きいことでしょう。このような雨季の修行を終えたばかりの修行僧を供養すると、現在の父母から七代前の先祖、さらに父母妻子兄弟の親族が、地獄・餓鬼・畜生界の苦しみから脱出して、すぐに極楽に往生し、衣食に困ることはありません。まだ父母が存命中であれば、寿命が百年まで伸びるでしょう。すでに亡くなっていても、七代前の先祖までが極楽に往生し、自在に姿を変えて生まれ変わって極楽の光の中に入り、無限の幸せを受けることができるでしょう。」
そしてお釈迦さまは、各地からの修行僧に対して命じられた。「みなさん、まず施主の家のため、七代前までの先祖の幸せを祈願して下さい。坐禅を行ってから食事を頂きましょう。」
初めてお盆を頂いた修行僧たちは、まずお釈迦さまにお盆をお供えし、みんなで祈願し終わってから食事を召し上がった。そのとき、目連尊者も、集まった修行僧もみな大きな法悦に包まれ、目連尊者の泣き声もいつしか消えていた。このとき目連尊者の母は、この日のうちに、長い長い餓鬼の苦しみから脱出することができたのである。
このとき、目連尊者はお釈迦さまに尋ねた。「私の母が、仏法僧の功徳の力を得て、餓鬼界を脱出できたのは、修行僧の不思議な力のお陰です。将来、全ての仏弟子も親孝行をしようと思う者は、この盂蘭盆をお供えすれば、現在の父母から七代前までの先祖を救うことができるでしょうか。」
お釈迦さまはお答えになった。「いい質問ですね。お答えしましょう。目連よ、男僧であっても、尼僧であっても、国王であっても、王子であっても、大臣であっても、役人であっても、庶民であってもみな、親孝行をしようと思うなら、現在の父母から七代前の先祖のため、七月十五日―仏陀の法悦の日であり、修行明けの日ですが―に、いろいろなご馳走を盂蘭盆に盛りつけ、各地からの修行僧に施して、次のように祈願してもらいなさい。現在の父母は、寿命が百年に伸びて、病気もなく、一切の苦悩がありませんように。七代前までの先祖は、餓鬼の苦しみを脱出して、極楽に生まれ変わって無限の幸せを得られますようにと。」
お釈迦さまは全ての人々に対しておっしゃった。「親孝行な仏弟子は、いつも心のなかで父母の供養と七代前までの先祖のことを忘れず、毎年七月十五日に、常に親孝行の心で両親から七代前の先祖までを思いやり、盂蘭盆を用意して仏や僧に施し、自分を育て慈しんでくれた父母の恩に報いましょう。全ての仏弟子は、この教えを大事にして下さい。」
このとき、目連尊者も、修行僧も信者も、お釈迦様の説法を聴いて感激し、これを実行することにした。
(拙訳)餓鬼事経十四「舎利弗の母」
ある日、舎利弗、目連、阿那律、カッピナの四名の尊者たちは、王舎城の近くのある人里離れたところに留まっておられた。そのときベナレスでは、とても裕福でたくさんの財産を所有している長者が、修行者・バラモン・貧者・旅人・乞食などに、飲食・衣服・寝床などを無尽蔵に施していた。また彼は施すとき、人が来るたび順次、足を洗う水、足に塗る香油など、施しの用意を全て整えていた。また彼は、比丘たちの朝の食事を、恭敬して給仕していた。
彼が所用で留守にするとき、妻に「お前、用意してある通り、この施しをやめないで、恭敬して続けておくれ」と頼んだ。妻は「分かりました」と答えたが、彼が出て行くと、用意されたふるまいをやめてしまった。さらに、宿を求めてきた旅人たちには、屋敷の裏にある古い小屋を見せて「ここに寝なさい」と言い、飲食などを求めて旅人が来たときには「大便を食え。小便を飲め。血を飲め。あんたの母親の脳漿を食べろ」などと、いとうべき不浄な言葉でなじっていた。 のちに彼女は亡くなり、業の力にひかれて餓鬼に生まれ変わった。自分の言葉による悪業の苦しみを受けながら、四つ前の生で舎利弗尊者の母だったことを思い出し、尊者のおられるお寺に行った。お寺では、守護している天人に遮られたが、「私は舎利弗尊者の、今から四つ前の生での母です。私を中に入れて尊者に会わせて下さい」とお願いすると、天人たちは彼女に入ることを許した。尊者はその女餓鬼を見て、憐れみに心動かされ、次のように述べた。「そなたは裸体で、痩せて血管が浮き出て、醜い姿形をしている。肋骨も露わに痩せた者よ、そこに立つそなたはいったい誰か?」
餓鬼は答えた。「私は前世であなたの母でしたが、今や餓鬼界に生まれ、飢えと渇きにあえいでいます。捨てられた吐瀉物、唾、鼻汁、痰、茶毘に付された遺体の脂肪、出産の血、傷から流れた血、およそ人間から出るものは何でも、飢えに負けて食しています。家畜や人間の膿や血を私は食べ、寝るところもなく、家もなく、青黒い墓地に横たわっています。息子よ、私のために布施をして下さい。布施をして、私に指定して下さい。そうすれば確実に、私は膿や血を食することから解放されるでしょう。」
そこで舎利弗尊者は翌朝、目連尊者をはじめとする三人の長老に相談して、彼らと共に王舎城に托鉢に行き、ビンビサーラ王の居城を訪ねた。経緯を王に話すと、王は「承知しました。尊者」と答え、大臣を呼んで四つの建物を作らせた。建物が完成すると、王は供養祭の準備をさせ、お釈迦さまをはじめとする教団のための飲食・衣服を用意させて、舎利弗尊者にその全てを贈与した。
そこで舎利弗尊者はその女餓鬼を指定して、その全てを、お釈迦さまをはじめとする教団に施した。女餓鬼は自分に指定された施しに喜び、天界に生まれて、全ての望みが叶えられた者となった。
彼女は後日、舎利弗尊者のそばに近づいて礼拝し、自分が餓鬼に生まれたことと、天人に生まれたことを詳しく話した。「黄土色の肌で、痩せ、飢え、裸で、皺だらけの皮膚で、悪趣に堕ちている私を、衆生に対する憐れみの心をおもちのあなたはご覧になりました。あなたは、比丘たちに一口の食事と、小さな布切れと、小鉢の飲み物をお供えして、私に指定して下さいました。一口の食の果報をご覧下さい。千年の間、私はたくさんの味や香りの食をほしいまま享受するでしょう。小さな布切れの結果がいかなるものかご覧下さい。たくさんの衣服、絹や毛糸、亜麻や木綿の衣服が、私にはございます。私はどれでも心に欲するものをまとうことができます。また、小鉢の飲み物の結果がいかなるものかご覧下さい。深く、四角に形作られた蓮池が、見事にできあがりました。池の澄んだ水は、美しい岸までたたえられ、冷たく、芳香を放ち、池は紅蓮、青蓮に覆われ、水は蓮の花糸でいっぱいです。私は何も恐れることなく、楽しみ、遊び、喜びます。尊者よ、衆生に対する憐れみの心をおもちのあなたに礼拝するため、私は参りました。」
(藤本晃『死者たちの物語』(国書刊行会)より一部要約)