お寺の名前が同じお寺が岡山にあることは、以前から知っていた。私の知る限り、この名前は全国で2ヶ寺しかない。
このお寺を知ったのは、御詠歌の有名な先生が住職をしていたからであった。梅花流の約3分の1にあたる35曲を作詞した赤松月船老師である。とはいえ私が知ったときにはすでにこの世にはなく、お寺は無住となっていた。
ところが数年前に新しい住職が入り、僧堂(修行道場)も開かれたという知らせを伺った。ただ、無住の期間が長かったために建物が相当傷んでおり、全国の寺院に寄付を呼びかけていたので、わずかな額ではあるが協力させて頂いた。
そのときに、堂長(住職)の鈴木聖道老師から直々にお礼のお手紙を頂戴する。同じ名前のお寺が山形にもあることを初めてご存知になったようだったが、それからしばらくして、赤松月船老師の十七回忌のご案内を頂いた。お寺にお参りするだけでなく、月船老師の報恩供養に参列できるとは、絶好の機会である。すぐに出席の返事を送ったところ、また堂長さんからわざわざお電話があり、ご親切にも行き方を教えて頂いた。新倉敷駅からタクシーで20分ということである。
山形の洞松寺から岡山の洞松寺までは、新幹線を乗り継いで8時間半の道のり。山間の集落からさらに細い道を入ったところにひっそりと佇む本堂、妙鐘の御詠歌の歌碑が刻まれた観音像、きれいに掃き清められた庭に立つと、感無量となる。
梅湯・菓茶のご接待をして頂いたのは、外国の尼僧さんだった。住職さんは国際布教師という経歴があり、その縁でオーストラリア、アメリカ、フランス、スペインの方が日本人と共にここで修行なさっているという。受け入れ先の関係もあるのか、男僧と尼僧が共同で修行しているのは珍しい。オーストラリアの尼僧さんに伺ったところ、小さい頃から内向的で、心の平安を求めて禅センターに通うようになり、一大決心して僧侶の道を選んだという。さまざまな国の人が一緒に暮らすためディスコミュニケーションもあるが、毎日幸せに修行しているそうだ。
お逮夜の法要の後、お寺は修行僧でいっぱいだということで近くのホテルへ。薬石を頂きながら、堂長さんから国際布教やお寺の復興についてお話を伺う。若い頃から各地で活躍なされ、師家となられた方とは思えない物腰の柔らかさと周囲への気配り、そして発想の自由さに大いに刺激を受けた。外国人修行僧には、英語で指示を出していた。
岡山の洞松寺は檀家が18軒しかなく、20人以上の修行僧を抱える僧堂を運営するのはたいへんなご苦労があるようだ。檀家さんが非常に協力的で、5日に1回の托鉢のほか、毎月行われる摂心(朝から晩まで坐禅をする期間)では、食事を作りに来て下さるという。ちなみに山内にはテレビもラジオもなく、新聞も取っていない。禁酒禁煙で、夜餐(夜の飲み会)もなし。正真正銘の僧伽である。
翌朝は前日よりたくさんのご寺院さんが集まっていた。門葉(系列のお寺)は1000ヶ寺以上あるというから驚きである。御本寺は静岡の大洞院様で、うちの本寺の本寺の本寺にあたる。親子に喩えれば、岡山の洞松寺は山形の洞松寺の大伯父ということになる。大洞院の方丈様も、月船老師の法要の導師としてお見えになっていた。齢90にして矍鑠、門葉寺院3000ヶ寺を率いる威厳はいささかも衰えていない。
法要は二世正当、開山忌、月船老師十七回忌、檀信徒総供養と約2時間。両班に空きがあったため上位に加えて頂き、間近に参列できたのはたいへん幸せなことであった。月船老師がおわしますが如くに、梅花講の皆さんと共に三宝御和讃もお唱えできて感激である。
法要が終わってから、近くのお寺さんによる月船老師のご生涯についてご法話。修行の後、文学を志して上京し、39歳で故郷で住職を勤めながら村助役や村長、洞松寺の住職になられたのは61歳のときであったという。『大乗禅』という冊子に寄稿したものをまとめたものをおみやげに頂いた。詩人として、数多くの詩や和歌、禅語に親しんでいらした様子が垣間見れる。
昼食を頂いて、帰りは梅花講員さんに駅まで送って頂いた。月船老師は、法事の後の法話もたいへん素晴らしかったことを講員さんから伺い、月船老師はまだこの地に生き続けているのだと感じながら帰途についた。
今回、ありがたいご縁に恵まれたのも鈴木聖道堂長老師はじめ、温かく出迎えて頂いた山内関係者の皆様のおかげである。また梅花の功徳といえるかもしれない。深く感謝をすると共に、ぜひまたお参りに伺いたいと思っている。